江戸は遠くに

雪見だいふくが好きで、駅前のセブンイレブンでよく買う。
春限定の桜味というのを見つけて食べてみた。桜入りのあんこが入っている。
レギュラーの商品は中にバニラアイスが入っている。
大福餅と言えば粒あんという常識をひっくり返したロッテ。
かつて母方の祖母の姉がこの商品を見て、びっくりしたように声を上げた。
「世が世なれば上様しか口になされないようなこのような物を、私ども下々の者が食するなどとは、なんともったいない」それもそのはず。
夏に氷菓を食べられるのは、江戸時代なら宮中か将軍家に限られる。
慶応生まれの大伯母に聞いても、アイスクリンは冬のものだと教えてくれたのを覚えている。
わざわざ夏に冷やしてアイス大福を頂くなどとは、滅相もないことだというのだ。
何気なく口に含むその大福が、口の中でとろけるのを感じながら、遠い想い出に思いを馳せる。
江戸は遠くなった。

「どんなときも」

槇原敬之さんの曲のなかでももっとも心に残っている曲「どんなときも」。
デビュー曲がいまだに忘れられない。就職活動中の若者たちを描いた「就職戦線異状なし」という映画の主題歌として使われたこの曲。
「どんなときも どんなときも 迷い探し続ける日々が 答えになること 僕は知ってるから」
女子バレーボールのエース益子直美元全日本代表もこの曲にはよく励まされたという話をしている。
人は青年期のある一時期、自分探しの旅に出る。
そんな高校・大学生の多感な時代に、自分が望むべき自身の姿について悩み、苦しむことは誰しもあるだろう。
ちょうどその世代にはある種の救いとなるべく、この曲が心に響くはずだ。
落ち込んだり自分が何をすべきか迷ったりしたとき、力を与えてくれるのがこの曲。
益子さんも一推しと昨晩の「NHKラジオ深夜便」にて紹介されている。
 若かりし君へ。応援歌としてお勧めしたい。是非御一聴を。

就活に思うこと

就職活動が始まった。
ただ僕の場合、数社から個人的な伝手があったため、自分から活動した思い出がない。
新聞によると、時期が遅くなって、スロースタートの学生も多いという。
切り替えさせるのが大変、と大学の就職課。
何とはなしにそこで働けるという話になって居着いた僕のような場合と違い、大部分の学生は自分から企業採用を勝ち取らないといけない。
就職戦線は売り手市場とはいえ、まだまだ採用基準は厳しい。しかもその基準を上げっぱなしの企業が多いという。
企業が学生に求めるものは厳しいという話で言えば、少子化のなか少数精鋭の選考を続けている状態は、就職氷河期のかつてから変わっていないのだろう。
これから若年層の人数は否応なしに下がってゆく。その中で人手をどう確保してゆくのか。
高度経済成長期人手を求めて中卒者を金の卵と重宝した。
金の卵たちの子供は親をしのいで高学歴に。
学歴は高くなっても精神病などで働けない人たちをどう社会に戻してゆくのか。
生活保護をもらっている人のことが問題視されるけれど、新聞広告に出ていた本の中に障害年金のもらい方のような、内容的に少しいかがわしいものがあって、僕は心にひっかかりのようなものを感じた。
生活保護より頼もしいなどと唄われていると、それを悪用しようとする人が出てこないかと心配になる。
子供を持つ世帯に優位だった生活保護の制度も悪用されてしまって弱者切り捨てにつながってしまった。嘆かわしい。
働こうとしても働けない、構造的失業者の雇用促進という点で言えば、就労継続B型の事業所はそのつなぎの役割を果たしている。「障害年金もらうとおいしいよ」などと健常者には安易な考えをもって欲しくない。
今から十年前、僕は自分の高校で同じ組になった友人すべてに施設通所のことについてはがきを出した。これで良かったというものがいる一方で自分的には少しやり残したことがあるのではと、迷う気持ちがあったのを憶えている。

食文化に恵まれて

幸せな国日本。ここではあらゆる国の料理が帰化している。
それもそのほとんどが、その国の人々から見ても、本国のそれらより美味だと口をそろえる。
どの国の料理も、その本物は日本でしか味わえないからだ。
そう知人から聞いて、改めて日本のお国柄のすごさを思い知ったものである。
本国で足りないと思われる材料も日本でなら簡単に手に入る。あらゆる調味料や食材が輸入されていると言うから、それが日本料理との同化力につながっているのだろう。
中華、洋食、エスニックなどすべての料理の枠を越え、これぞ日本の味と言われるまでに独特の調味に昇華されている。
カレーライスなどはインドが発祥と言いながら、そのくせあのルー(カレーソース)は日本ならではの発明品。
ドライカレーと言えばカレーピラフではなくキーマカレーと相場が決まっているという。その点、自分の不明を恥じる。
最近それに気づくのだがこれも日本の寛容なところ。この国に生まれて良かった。

夏のアルコールは

だんだん日差しが柔らかくなって春がやってくる足音が聞こえてくる。
川の上流。雪解け水を含んで流れは蕩々と下流へ流れる。
きりりと冷えたビールが美味なのは実は冬から春に向かうこの時季なのだろう。
暑さ寒さも彼岸まで。あまり太陽が照りつける日にはビールはおいしくない。
やっぱり夏の暑さにあうアルコールと言えばチューハイである。
梅酒なんか合った日には申し分ないだろう。カロリーが高めとはいえ、これらアルコール飲料とポテトチップで僕のいつものスタイルは決まる。
でも待てよ。どちらかというとナビスコのチップスターがあればビール系飲料が欲しくなる。
チューハイの夏とはいえ、やはりその時季になればウイスキー。ハイボールを口にしたくなるだろう。
マッサンの物語も佳境。一度断ったはずのあの角瓶の誘惑にまたも駆られる私である。

立春過ぎて

二月三日が節分。翌四日は立春。
暦の上ではもう春。そういえば日差しにそれらしさを感じるようになったこの頃。
節分を祝う膳をTの皆で囲みます。
恵方巻きを食べたりはしませんが、助六寿司と鰯を見てご満悦。
行事食を折に触れ楽しめるのが、Tのいいところ。
仕事を充分に頑張った後の食事は格別においしいものとなりました。
鬼が逃げていくように落花生を投げて鬼やらいをしたのはD。
鞘付きピーナッツを投げるので回収も簡単です。誰が考えたのでしょうか。
大豆を投げるいつもの方法とはひと味違う豆まきを楽しみました。
そして今日五日。これから一両日中には、雪の恐れがあるそうです。
春とは言いながらこの寒さ。
今週はショートステイをしながら過ごす七日間となります。
節分寒波がこなかった今年。これも温暖化の影響でしょうか。
コンビニの店頭には早くもチョコが。もうまもなくバレンタインデーです。

ATMのひみつ

郵便局に行くと自動現金預け払い機がある。
人に聞くところ、その中には高度な人工知能が内蔵されているという。
時々その人工知能が見せるリアクションが面白くて、ついつい預けたり出したりを繰り返してしまうことが、僕にはある。
預け過ぎるとその分を受け取ってくれなかったりするから、その駆け引きが面白いのである。
この人工知能は某飲料メーカーの自動販売機にも応用されているという。
NHKのラジオの番組でも取り上げられたけれど日本の機械はよくしゃべる。「いらしゃいませ」から「ありがとうございました」までしゃべりっぱなしで、少しは静かにして欲しいことすらある。
案内音声は郵貯のATM独特のものなのだろうか。
過去にある人型ロボットの知能として開発されたというその人工知能が搭載されたという経緯があるらしい。
郵貯のATMはそれだからこそ日本の宝にふさわしいといえる。
少しく言い過ぎかもしれないけれど日本の技術水準の高さを感じるエピソードではある。

 

単品豪華主義

ミルクレープというケーキがある。
クリームが何層も焼き上げられたクレープの間に挟まっていて、生クリーム好きにはたまらない一品。
僕はいつも行く喫茶店で初めて出会ってから大好きになった。
もっぱらケーキは単品で水とともに頂くのが自分流である。
シフォンケーキもチーズケーキもそれなりにおいしいのだが、ミルクレープの方が素朴な感じがして好きだ。
追加してコーヒーを頼むときはよっぽど仕事がうまくいったときか余分に現金が入ったときぐらいしかない。
消費税が五パーセントから八パーセントに上がったのを機にそこの喫茶店の全メニューが五十円ずつあがった。
たまのご褒美が遠のくのは寂しいけれど、定期的にブレンドコーヒーは頼んでいる。
ケーキセットをとるのはあまり気が進まないのに、単品豪華主義からなかなか抜け出せない。この喫茶店ではたく分には無駄遣いをしているという感覚が乏しい。
この錯覚に似た感情、変わり者だと笑われるだろうか。

二十歳の壁を越えて

過去の自分はかなり勝手をしていたと思う。
二十歳になったら世の中から自分は消えてしまうのだろう。小さいときから脳障害を持つ同士の死を間近に見ていたせいか、そんな邪念にいつもさいなまれてきた。
俗に言う二十歳の壁。それまでに亡くなってしまう症例も多いなか、僕はそこまで重い障害でもなかったのだろう。幸い生き残った。
それまでに亡くなってしまった仲間の分まで生きなければという気持ちにならぬまま、十七歳の頃から親に当たり散らすことも増えていった。このままでは引きこもりになる。
僕の精神的症状はこの二十歳の壁への思い込みから始まったと言っていい。
死んでしまえば自分も周りの人も楽になると勝手な理屈をこねている。
こういう考え方は本当は自他共に不幸なのにと今となれば思えるし、二十歳を越えて生きた自分はそれまでに死んだ仲間の分まで生きて、これまで出会った人たちの恩に報いるべきだ。今はそう思う。
生業を持つこと生き甲斐を見つけることも大切だ。
会社での仕事は自己責任が大きい故に不適当だと言うことで、仕方なく作業所に行くことになった。
幸い大規模な施設に拾ってもらうことが出来た。
A型とB型があるが、B型が自分には合っている。職員として人の上に立つことが出来る性分ではないので、利用者として与えられた領分を生業にしてやりがいをもって生きることが出来ている今が自分には幸せである。
企業の雇用に引っかかったものの、処遇が必ずしも自分にあったものでなかったことを考えれば、障害者自立支援法上の通所施設で工賃をもらう今の生活を大切にしてゆきたい。
世間のなかで障害に対する理解のないところにいて行き詰まる生き方をするより、無理なく病気療養しながら生活の糧を得る方がずっと得策であろう。
自立した生活と言うには、僕の場合ずっとほど遠いけれど、生き生きとした今の暮らしのなかで、出来ることを少しずつ増やしていきたいと思う。

汁物は万能食

日本食(和食)が見直されてきている。
世界遺産にも指定されているが、この和食のなかでも汁物は我が家の朝食に大活躍している。
主食(米)に一汁一菜のご飯。野菜たっぷりの汁に漬け物に米飯。このパターンは父や母がもっとも得意とする調理である。
鍋物をした後の雑炊など出来た日には、たまらない気持ちになる。それだけで幸せな気分に浸れるのだ。冷蔵庫の始末におすすめである。
漬け物も最近はぬか床から売っているので、キュウリ、なす、大根など埋めておくと二週間ほどで浅漬けのできあがりである。
野菜が最近値上がりしているが、炊き込むとそれだけで汁物として主菜になってくれる。それが和食調理の強みである。
凝った料理を作らなくても鍋ひとつあれば何とかなるのだ。
日本食で育ってきて良かった。幸せと食事の関係とは、そう充分感じられることにあろう。

無の思想

月曜日の朝。頭がそわそわしていたので、デイケアに行ってみる。
いつもあゆみ舎にいる時間帯。何をするでもなく時間が過ぎる。
薬をもらうために診察室に入る。これもさしたる話題もない。便りのないのはよい便り。
そういうものだとは知りながら、コンビニで買った稲荷を昼食にとり、三時半には帰途についた。
何も覚えていない。頭の中は真っ白である。自分のこととなるとかえって頭の中には何もない。
いいことなのだか悪いことなのだか。何も考えられない。思考停止。
無為に時間を過ごしていても何か感じるものなのだけれど。無為のなかの有。
西田幾多郎さんってもしかしてこういうことを言っていたのではないか。無の思想に一人近づいたような気になる。
時は静かに流れてゆく。こういう心の状態もたまにはいい。時計が故障したデイケアで無というものを体感している。
何とも穏やかな気持ちで僕はそこを発った。

雨に感謝

雨が降る。一日中どんより。
こんな日は移動するのもつらい。
足の障害があるからただ歩くだけでも大変な上に、傘を持っているから体のバランスをとるのも一苦労。
雨の降る日はお休みにすると、カメハメハ大王の歌の世界であるが、そういえば…。
某施設に身を置いていた頃は、そういうことにしたこともある。
でもそんなに甘くないのも世間だ。
雪の降る日が三日続いたこの年明けはさすがに出られなかったし、昨年の大型寒波襲来の時は、車で出られないときもあった。
大雪大雨、暴風警報が出ない限り世間は止まらない。
今日は土砂降りの雨の中、あゆみ舎へ向かう。春を思わせる日差しを感じた前日の天気とは打って変わった空模様。
新春気分も抜けたこの時季には、意外と喜ばしい天気なのかもしれない。
歩くとほかほかしているから、もう上着も要らなくなるだろう。
春に近付くこの雨に、僕は大いに感謝している。

お小遣い

お小遣い制を敷いてから無駄遣いが出来なくなった。
かえって良かったのだが、現金の管理を父に頼んでいる分、頼りにしている部分が大きくなった。
父の負担にならねば良いけれど、手元にある現金を整理してみて、自分の自由になると思っていたお金のほとんどが、無駄遣いであったと気づく。
ペットボトルをあんなに買わなくて良かったし、夜になれば生活費のなかから父が夕食を用意してくれるから、コンビニにも夕食代を払わなくてすむ。
日に五百円で昼食を買うことは出来るけれど、その分を家で食べることも考えていいかもしれない。トモニーでの食事がもったいないのだ。
あゆみ舎では給食をいつも頼んでいるけれど、トモニーでは心の調子がいつもいいとは限らないから、たまにしか頼めない。
現金の管理を出来るようになれば一人前なのだけれど、僕は現金が手元にあればあるほど使ってしまう。何かいい方法はないだろうか、心のたがが外れぬような。

ペン字でさらさら

新年は五日から仕事始め。あゆみ舎での初仕事。
みんなは午前中下鴨神社へ初詣。いつになく静かな舎内で鉛筆の音だけはさらさら。
エッセイを書いて今日先方へ送ります。
タカラの人生ゲームについては以前このプログで触れました。それと同じものをペン字で清書して送ったので、あまり新鮮味はありません。
それでも毎回届く先生の論評が楽しみで、ついつい毎月送ってしまうのです。
おせちや雑煮を食べたり、お餅を焼く話は馬鹿ほど書いたので、ここでは割愛いたします。
ペン字で清書するというこの作業にふと思い当たります。失敗できないというのはもちろんだけれど、この汚い文字ではたまらないだろう。
実はこのエッセイ講座、鉛筆書きは一切受け付けられないとのことで、毎回苦労しております。ボールペンで誤りなく、さらさらと文章が書ける日が一日でも早く来るのを願っている、そんな今日この頃なのですが、如何。

暮れゆく年に

この世とあの世がつながっているような感覚。
ふと感じるのは年と年との境目がそうだ。年の瀬も押し詰まり、年越しの準備にかかる頃。鏡餅をしつらえ、神棚にそっと手を合わすとき、神や仏に感謝する心がふつふつと沸いてきたものだ。
感謝。また来たる年に向けて健康で清らかな心でありますように。妙なる願いとともにありがとう。
先祖のおかげで今私が存在する。日本によくありがちな神仏習合。これもひとつの信仰の形。
あの世とこの世の結界はきっと、この信仰の形とともに存在するだろう。日本がこれを守り続ける限り、国としてのアイデンティティは健在だ。
「去年今年貫く棒のようなもの」という句がある。
揺るがぬ芯をもって、規律的な生活をすることが大切だ。そう改めて感じるのは、自分が精神科に身を置いているからか。
神ながらの高天原は、見る人のみ見えるものだ。今年もはや暮れようとしている。
皆様も良いお年をお迎えください。

空と君のあいだに

同情するなら金をくれ。
そう安達祐実が言い捨てるセリフで有名になった日本テレビ系ドラマ「家なき子」。
その主題歌として使われたこの曲は、中島みゆきの独特の詞の言い回しとともに、長くテレビを見た人の記憶に残っているだろう。
ドラマを見た人のあいだで人気が爆発。
その後オリコンチャートの一位にランクインしたことで、中島みゆきは七〇年代の「わかれうた」八〇年代の「悪女」に続き三つの年代でNo,1ヒットを達成した初めてのアーティストという栄誉に輝いた。
一九九四年リリースのこの曲。今からもう二〇年もの昔の話になる。
時を超えた大ヒット曲は陰に数々の伝説を残す。この曲もまた人々のなかに不動の位置を占めるに至った。
「空と君のあいだに」何が君に起ころうとも僕は君を守るよ…。
そのメッセージの裏に隠された物事の重さ。それに人は心動かされたのやもしれない。

無責任ヒーロー

また総選挙が始まった。
師走の街を先生がたも走る、走る。
この時期は企業にとってもかき入れ時である。
クリスマス解散だけは何とか免れたけれど、それでもこの時期の解散に全国民からNGが出てもおかしくない。
維新を掲げた某政党もいまいちで、何もやってくれそうもない。
江戸期から明治期にかけて、薩長土肥のヒーローたちが維新を成し遂げた。
大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、西郷隆盛等の明治の元老たちは、今も変わることないあの国会議事堂の建物において、どんな夢を新生日本に託しただろう。
平成の世になり、新しい時代の鍵をどこかに置き忘れたまま。これでは無責任だ。
今のところ首相になりたい人も国会議員の中に見あたらないという。
このまま安倍晋三さんが国政を司る状況が長く続くことになる。
民主党はみんなの党と合流して、単なる数合わせに汲々としている。
真のヒーローはどこから出現するのだろう。正義はどこにある。

カントリーミュージック

カントリーミュージックが日本で大流行した時代がかつて存在した。アメリカ文化を吸収する過程でなくてはならない要素だったのだろう。
京都では近年、毎秋カントリーミュージックの祭典が開かれ、父の若き日のよき時代をともに過ごした仲間が、定年を機に又バンド活動を再開している。
父がブルーグラスを演っていなければ、いそしくカントリーミュージックに触れる機会にも僕は恵まれなかっただろう。
ビートルズが音楽を変えたとは言うけれど、アメリカのカントリーやブルーグラスはそれ以前のものだ。
古き良き時代のポップスを代表する存在である。
日本の軽音楽ブームはまずカントリーミュージックから始まり、今では考えられないけれどテレビでも番組が放送されていたと父は言う。
様々な音楽に触れた僕は何でも聴く方で、あまりどのジャンルが好きというわけではない。これも父からの贈り物だと今では感謝している。

飲み過ぎた

飲み過ぎた。ワインをコーヒーカップに二杯。
ぐでんぐでんに酔ってしまった。赤ワインでアルコール度数七度。
おまえはだいたい飲み方というのを知らんな。そんなことを父に言われた。少し悲しくなった。
コーヒーカップ二杯の赤ワインごときで、こんなに酔いが回ってしまっては、自分も歳を感じずにおれない。
こんな事では、自分の体の衰えをもろに見せつけられたに等しい。
発泡酒を飲み慣れているとはいえ、その後の飲み過ぎがかえって隠せない。悪いことは出来ないものである。
精神科の薬の効き方まで考えて飲まないといけないので、始末がつかないから、こういう事は、もうやめようと思うと、二重に悲しい。
バファリンでもと思って探していると、お父さんが母の形見のそれを見つけた。
これを飲んでも差し障りがないとおもうより先に飲んでみたら、神仏のたたりが恐ろしい。

未年の年賀状

今年もあと四十数日あまり。今月初めには年賀はがきが発売された。
全国版と地方版を同数ずつ購入する。
まっさらなはがきに、来年のご挨拶は何にしようか。空にペンをうろうろさせながら考える瞬間の楽しいこと。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。自分らしく決めたいなら、旧年中もお世話になりました、とさりげなく付け加えるといい文面になる。
レイアウトはどうしようか。小さくまとめたいなら賀春、頌春など。メジャーな話になると謹賀新年。年号と元旦も入れるのを忘れないようにしたい。
一つ年が繰り上がって平成二十七年、二〇一五年になるのも、頭に入れておかないといけない。間違ってはがきが没になると悲しいが、意外と年号と住所のケアレスミスによるものが多い。
未年の来年は、羊の毛皮のようにもこもことあったかな一年でありますように。今年と来年をつなぐ一枚に願いを込めて。

誉められて

じんとくる話。悲しい話。笑える話。喜ばしい話。
話には色々あるけれど、本当の話を書いたという実感が僕にはない。
プロみたい、小説みたいな文体だと誉められたのは、悲しいかなこのプログに載った文章。最近になってからだ。
人生の経験が今のような文章を作るのだから、今の方が断然上手に書けてるよ。お世辞かもしれないが、父のこういう誉め言葉も悪い気はしない。
嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、充実していたあの日、入院生活のあの時この時…いろいろな体験が、文章の下敷きになっている。
中でも、市内の様々な地域を歩き、機能訓練にいそしんだことで、いろいろな人と出会い、見守られてきた。それを今つくづくと思い返すと、家族総出で頑張ってきたあの一瞬一瞬が輝いていたと感じる。
私には子供がいない。連れ合いも出来なかった。でも知人には割と恵まれた半生だったと思っている。

ヘルパーさんと

今度は何を作ろうか。だいたいのメニューは決めてある。
おでん、ぶり大根、ハマチの照り焼き、ちらし寿司、肉じゃが、カボチャの煮物、ほうれん草のおひたし、白和え、親子丼、鍋物。
sさんには調理でずいぶんとお世話になっている。一年は早いもので、もう次のホームヘルプで一年納めの十二月を迎えることになった。
焼き物もゆでものも煮物もすべて一通りはやったので、次に何をしようか迷ってしまう。
大好きなチキンライスを作ったときは、父親の分の一皿までぺろり。
下拵えが出来たら、椅子でお話。会ったことのある人の話、今話題の映画の話、あゆみ舎での色々。
いろんな話題を持ったけれど、最近は頭が追いつかない。
色々お話をして、ヘルパーさんに火の加減を見てもらう間の時間をいつも楽しくさせてもらっているが、話を聞く方は大変だろう。よくここまで続いたものだと思う。
何かにつながって欲しいな。

ストレス反応

起き上がれず、朝の課業に間に合わないと、だいたい頭がぼーっとしているので、作業所にも出られない。
出られない日は休んでいいという方針の作業所なので、やむなくベッドに張り付いていると、あきらめより自責の念が先に立つ。
頑張れない心になってしまった。悲しい。
今日はどこ行くのと父。行く行かないの問答の末、今日は行くな、と父。
片付けも着替えもおぼつかないまま、頭が状況に負けてしまう。
今頃はみんな作業している。頑張っている頃や。悔しい。
やたら負けず嫌いなのは、自分の素の性格なのだろう。
薬の副作用なのか何なのかはよくわからないが、土曜日にまれに仕事を入れると起こることが多い状況である。
先約するとその日に限って風邪を引いたりすることも、幼い頃には多かった。ある種のストレス反応なのだろうか。
今度はこんな事にならないよう、気をつけたいものである。

2014年ハンバーグレク

山の家はせがわにて二回目のハンバーグレク。今年も十一月十一日にとりおこなわれた。
今年は秋が長く、紅葉も長いこと残っている。ベスト・シーズンに人の入りも多い。
雨模様だった昨年とは打って変わって空が高く、陽光にきらきらと輝いている。
本年はラーメンレクの班と二班に分かれたため、スタッフ三名にメンバー八名という構成になった。二千円までの予算でいいのかな。
今年の僕の目はあるメニューに釘付けになった。ホタテフライとエビフライ+ハンバーグセット。ライス付きスープ、ドリンク込みでジャスト二千円也。ちょっと高いか。
でもこれが欲しい、せっかく来たんだから。yさんからオーケーが出て、押し切って食したその一皿の豪勢で美味だったこと。子供の頃を思い出して無心になった。
贅沢やな。至福のひととき。エビフライを久しく口にしていなかったので、ライスを頼んだ五人分大盛りにしてもらえて得した気分。存分に楽しむ。
ちなみに子供の栄養補給に合理的な、いわゆるお子様ランチ的なこの一皿は、おなかだけでなく心までゆっくりと満たしてくれた。大満足である。
これにまだお約束のデザートを頼む。財布の中を特別に今日は度外視して、八百円も奮発。プリンパフェが運ばれてきた。
プリンとパフェを同時に楽しもうという趣向だ。手作りプリンは単品で四百円のもの。それにプリン味のアイスと生クリーム、ブルーベリーにレーズン。オートミールもと様々な味を楽しむ。
手作り感たっぷりのこのパフェを食べていると、周りの目が少し気になった。こんな事をしているのはメンバーの中で僕だけだ。
YさんとOさんに「ゆっくり食べや」と声を掛けてもらう。子供的な振る舞いに自分は恥ずかしかったが、好意は充分ありがたかった。
家族の中でもたぶん僕はこういう育ち方をしてきたのだろう。幸せ一杯のレクはこうやって過ぎていった。来年の秋レクには何が起こるか、今から楽しみにしている。

ハウス加賀谷さん

松本ハウスというお笑い芸人が心ときめき芸術祭にやってきた。

ハウス加賀谷さんが統合失調症の当事者という事で相方の松本キックさんと病状を取り入れたコントを演じる。NHKの某番組にも出演したことのあるコンビである。

彼らのコントはあまり面白くなかった。東京発なら受けるかもしれないが、ここは京都。お笑いの世界は受ける受けないがすべてである。厳しい世界だ。

ただでさえそれなのに、障害を持つ加賀谷さんは恵まれていると思う。

まず相方の松本キックさんの理解ある姿勢に驚かされる。足下からすくわれそうになりそうなお笑いという世界で、障害者であること以前に人間として困っているから助けてあげたい。そんな発言を聞いていて、もしかして松本さんの親類縁者の中にも障害者がいたのかもしれないと、そんなことを考えた。

自分の病気をよく理解した上でステージをこなしている加賀谷さんに脱帽。入院経験のある患者さんが、ここまでの社会復帰を果たした例は多くないのではないかと思う。

発症したのが十二歳で、お笑いの世界に入ったのが十七歳。少し気分の波が高まると、調子がいいからと言うので服薬をやめてしまったり、誰もが体験する過程を通って入院生活へ。そこからコンビ復活までの道のりは、本人の努力と周りの人たちの理解があってこそであろう。

その間「焦らない、あきらめない」と心に言い聞かせて、長い年月回り道をして現在の地位に至った松本ハウス。障害者を舞台に上げていいのか。そうヤジを飛ばされたことも悔しさに油を注いだことだろう。彼らのこれまでの道のりは決して平坦ではない。

場合によれば大きく道を外れたかもしれない。

主治医からも、あなたはお笑い芸人には向いていないと指摘された加賀谷さん。回り道をする間に、一人でこつこつする作業の方が向いていると、改めて発見したりしている。

人は向いている仕事を必ずしも天職とするわけではなさそうだ。


つながり

人とのつながり、ものとのつながり。

僕は元々そういうものに対する感覚が鋭敏だったわけではなかった。

そのぶん学生時代には、それがどういうものであるかわからず苦しんだ記憶がある。分子論的に人のつながりを解き明かそうとしていたからだ。

学校を卒業して自然とそれがどういう事だったかを徐々に気づくという有様だった。

友人たちもそれぞれがそれぞれに道を選んで進んでいく。

僕の生活に直接関わる仕事を選んだ知己も少なからずいるけれど、あの日あの時出会った有形無形のものとのつながりは、今ではかけがえのない空気のような存在となって、しっかりと僕を支えてくれている。それを直接間接に感じられるのも今の僕の強みである。

僕は父の実家も母の実家も、商売人であるといういわゆる中産階級の血筋に生まれた。T社に採用されたときも、K社に採用されたときも、待遇はいわゆる室長級で入っている。

学生時代から成績は中の上だったからそれくらいは当然だったかもしれないが、それにしても…。

その当時の同期が労働者階級を立派に率いている。人のつながりの奥深さを感じるこの頃である。

おいしい季節に

筍、松茸、柿、栗、甘藷。私は秋が大好き。実りの秋。おいしいものが一杯なのだ。

コンビニに行くと「おでん始めました」の文字。十月になるともう朝晩は寒いほどだ。冬の入り口ももう間近である。

秋刀魚を食べる。朝食時に出たのはもう二尾目である。

牡蠣フライ弁当を某弁当屋が出している。デイケアでそれを食べたい人が会を作っていた。おいしいもののパワーは絶大なのだ。

手の込んだ調理を父に頼むことも出来ないから、僕もいつか会に入れてもらっておいしい牡蠣フライを…。

とはいえ一応かっておいしいものを極めつくした僕のこと故、それだけで飽き足らないのは目に見えている。柿を頂いても、その熟し加減が気に入らなかったりするが、買ってきてもらった手前、たいした文句も言えない。

料理上手な母のこと、天国でも大いにその腕をふるっているだろうと思われる。

恋しくても、もう自慢の料理は口に出来ない。

 

ビョーキとデイケア

病気の話をしていると心が落ち着くとは限らないから、今までしなかった。でも自分の病気を自分でわかることは自分の体調をつかむためにも大切なことなので医院のスタッフには話が出来る。

ただ難点は、話の内容をかえって主治医には打ち明けにくいことである。

天候のせいにしたり、体調のせいにしたりしている患者さんもいるようだけれど、自分の病気が悪いのを、割とそういう要因のせいにして、ただでさえ病気のせいで何も出来ないという逃げ口上が働きやすいのも精神科のような気がしている。

ただ周りの大変さを全部一人で受け取っている立派な人も一方にいるから、デイケアメンバーも様々である。それは違うで…と思った人の話は半分に聞いた方がいい。

こうなるともうデイケアも使いようだ。

物事は受け取り方によってずいぶん変わってくるものだと思う。

 

ソフトクリーム

トモニーで作業を終えると一階まで降りていって、お小遣いに余裕のあるときは、きらきらでバニラソフトクリームを頼む。

あぁ、今日の作業も終わったなぁ…。充実感に包まれるひととき。

ソフトクリームの味の良し悪しはそこの喫茶店の実力に比例すると、僕は思っている。

某コンビニエンスストアで出すソフトクリームは、コーンがつくだけでただのアイスクリームと変わらないし、あの卵黄を使わないふわふわのメレンゲだけを使ったソフトクリームの口溶けの良さ。本物を知ってしまうと、ただのアイスクリームでは物足りなくなる。カロリーも低めであるのでアイスクリームよりは口にしやすい。

あるフィギュアスケートの選手は、ソフトクリームのクリームだけを食べて、コーンを捨てたり、シュークリームのクリームだけとって、シュー皮を捨てたりしているらしい。クリームそのものはカロリーが少ないからと言うのが、その理由である。以上、余談ながら。

 

ウイスキー

ウイスキーをワン・フィンガーずつ楽しんだ。

一ヶ月に角瓶一本がなくなる計算だ。

一日一杯薄い水割りを楽しんでいると、自分の至高のひとときがこうやって過ぎていくのかと思う。

一方では満ち足りながら、他方でどこか不自然さを感じてもいた。月給が九万円あったバイト時代の話。自分がまさかこんな状態で病に冒されるとは思わなかった時分である。

ウイスキーは大人の飲むものだという先入観をあっさりと覆し、一ヶ月に一本、千円ずつ支出し続けた。

味になれてくると、オールドや白札も試してみる。それぞれ味わい深く楽しんだけれど、結局また角瓶に戻ってしまった。

安いウイスキーはそれなりの味しかしないと納得した次第。

ウイスキーの飲み過ぎで緑内障にかかる。手術の後、視力は取り留めたけれど、ウイスキーは二度と口に出来なくなった。

大人の飲み物を二十歳になってすぐ覚えたのは、僕にとって大きな事だったと、今では感じている。

 

ダイエーの終わり

あの大スーパーだったダイエーの屋号がなくなる。

イオングループの社長が明らかにした。

新京極にあったサカエというスーパーによく幼い頃祖母に連れて行ってもらった記憶がある。京極スカラ座や松竹座など映画館が集まっていた当時の新京極を覚えている者にとって、ダイエーは記憶の中に長くとどまっているスーパーである。

出店のしすぎで有利子負債が数兆円に昇ったという台所事情までは聞き及んだが、物流業界の中で大きな存在であったそんなダイエーの最盛期を知っている者にとって、中内氏の拡大路線に異を唱えてきた人たちのその後の苦労を思うと、無念の吸収劇だったと言わざるを得ないのだ。

イオンとダイエーの二枚看板は解消しても、旧ダイエー系企業のおのおのは残ることになろう。どう業界が再編されていくか。イオングループのこれからが、この巨大市場にかかってくる。ダイエーの終わりにその感を強くする。

 

コスモスの花

コスモス揺れる秋。

秋桜とも書くこの花に、母は深い愛情と慈しみを注いだ。

この時期はキンモクセイの花もきれいだ。秋が深まるとモミジも紅葉して風情もひとしおとなる。

小さい頃京都御所を松葉踏みしだいて歩き回った、あれも秋の候だったか。

父が言う。コスモスは母さんの好きな花。仏前に手向けようか。

コスモス=宇宙。さだまさしの曲にもなったこの植物はこの自然の中で小宇宙を司る。

神秘的な名はこの世の調和を象徴するらしい。改めて自然の力を考えてみる。

畑に沢山植わっているのは農業政策の一環とは聞いたことがあるが、意外としぶといところがあるのは、か弱そうなこの植物の二面性かとも言われるところだ。

大いなる自然の力に抱かれて、人間もまたコスモスのようであれと、僕には感じられる。

神の与えたこの世の定めに従い、今秋もまた一日一日を生きよ、と。

 

コンビニと私

スナック菓子には多々あれど、王者と言えばやっぱりポテトチップス。

カルビーのそれはコンビニで六十三グラムの小袋まで売られているので、手軽に手に取りポリポリ食べられる。

大好きなのはグリコのジャイアントコーン、森永チョコモナカジャンボなどのアイスクリーム。体重増の原因がそれらアイスのせいだとわかっていても、ついつい食べてしまう、一日一個の贅沢。

ほかに菓子パンなどはあっても食べにくいとは思いつつメロンパンなどあるとつい手にしてしまう。

ダブルシューやエクレアも捨てがたいが、ケーキなどを見ても、コンビニでそれを手に取ろうとは思わない。

ペットボトル飲料は主に緑茶と無糖コーヒーを購入することにしているが、僕はどういう訳か一日一定量の糖分をとらないといけないと思い込んでいるため、ペットボトル三本から五本とるうち一本はジュースであり、あまり目移りすると言うことはない。

 

一日の終わりに

発泡酒を入れとくからな。冷蔵庫開けたら入ってるし。

木曜日。父は朝の用事を済ませると、そう僕に声を掛ける。

今日は父の仕事が休みの日。いつもバンド仲間と練習しているため、僕があゆみ舎から戻る時間に家に帰っていることは少ない。

外は少しずつ秋の色が濃くなる。

「休みの日は朝から発泡酒を開けてます」そう主治医に話すと「それはいけませんね」と言下に答えが返ってきた。

「お酒はその日一日の課業がすべて終わった後に、晩になってゆっくりと楽しむものです」

「そうですね。私が行きすぎたことをしていました。これからは気をつけます」

そういって診察室からは出てきたものの、こんな事を気遣わねばならなくなったのは、薬の投与量が増えた今年に入ってから。

せめて今日一日を無事に過ごせたご褒美としての発泡酒を大切にしたい。

僕にビール系飲料の味を教えた母をじっくりと偲びながら、今日もまた至福の一缶を口に。

お疲れ様でした。

 

父のハンバーグ

父親がハンバーグのもやし添えを作って朝食に供してくれる。出来は今ひとつ。

でもおいしいよ。いやちょっと待て。夜に食べよう。

一日の終わり、発泡酒とともに。そうしよう。父はなんだ食べないのか…と浮かぬ顔をする。

出来がもう一つという割にうまいこと作ってくれたような気もする。

夕食に回すわ。と僕は前夜買っておいた助六寿司を冷蔵庫から出すと、すっかり平らげてしまった。いい出来だよ。気持ちを伝えるのに四苦八苦しながら。

これはポン酢をかけるとおいしいな。大きな声では言えないが、父に毒見させているようで心が痛い。

出来合いのハンバーグならいくらでも食べているけれど、今朝のこれはまた特別なものになるだろう。一緒に食べるからいいのに…。父は少し残念そうにつぶやく。

おいしいものは後の楽しみにとっておこうよ。気持ちは充分父に伝わっただろうか。

 

豪雨の後で

秋を思わせる風が夜空を渡ってゆく。

台風や豪雨災害で広島も福知山も、大変な痛手を受けた。

今年の夏は例年より日照時間が短かったので、あっという間に過ぎ去ったように思う。

スコールのように短時間に猛烈な雨に見舞われたのが、今年の夏の特徴だった。

日本が熱帯化しているのか、梅雨とスコールの繰り返しで、河川の増水や土砂崩れが多くの地域を襲っている。

大きな災害が列島を悩ませていったようで、その被害が局所的になって多くの人々がそれを他人事のようにしか見ていられぬように思える。

それは国民全体にとって決して幸福な話ではない。互助の精神が今日ほど必要な時代もなかろう。

新興住宅地をいきなり襲った今回の広島での豪雨災害は、僕にとってショックな出来事として心に響いた。

秋雨に濡れて帰る足下を気にしながら、いつもの秋晴れを心に念じる。どうか平穏な日々がすべての人々に戻ってきますように。

 

手書き

日常的に原稿用紙を使っている人はどちらかというと珍しいようだ。
小中学生の時に教室で配られるそれの印象が強く、一般的に売られていることを知らないという人もいた。
文章を書くのを職業にしている人も今頃は原稿は原稿用紙でなくすべてメールで送信しているという。
締め切りなんかのごまかしが効かなくなったので、Hという文筆家が嘆いておられた。
僕は自分の文章はすべて原稿用紙に自筆で残しておきたい方である。
パソコンで原稿を打つようになった現代の文筆家は、筆を持たなくなって短い文章しか出てこなくなったのではないか。一文が短く、語るように綴られる文章。一つの美しさを持っているとそれはそれでいえなくもない。
しかし原稿用紙に筆で書かれた縦書きの文章には、それ独特の重みや深みがあると、学生を対象にした実験で理屈付けした書家の話も聞いたことがある。手書き原稿の温かみは何にも代え難い一つの文化であろう。

注射は勘弁

デポ剤を使うことにして、朝の服薬を止めてみた。
体調がかえって思わしくなくなった。
朝に薬を服用すると言うことそのものによって、かえって気持ちが落ち着くという現象がどうやら今の僕には見られるらしい。
薬は少しずつ血中に放出されるので、急に切れて禁断症状になると言うことはない。そう看護師さんから言われても、気分がつい禁断症状的になってしまう。
苦しい。火曜日から水曜日にかけてそのように苦痛が続くのは、たぶん気持ちのせいだ。
主治医も気のせいでしょうといいながらも僕の現状を知って、内服薬に切り替えてくれた。
注射はもう勘弁。飲み忘れのないようにして頂いたせっかくの計らいを白紙に戻してしまったからは、朝も夕も忘れずに服薬すること、これが一番大事。
覚醒剤や危険ドラッグを使用しているわけでは、断じてないのにあくまで幻想的な禁断症状に一人でうなされ、苦しんでいるこの症状はどうにも信じられない話である。

精神科に通うようになって、もう十五年たつ。
本人が自分がおかしいことを認めながら、自分で入っていったとはいえ、その見返りに失ったものの大きさに時折憮然とすることもあった。
当たり前の健康的な生活とは逆向きの暮らし。
これまでやってきた父の手伝いの、店の経理の仕事のやり方もよく分からなくなってしまった。スキルが落ちる。どうしよう。
別に仕事を作業所で任されるようになってからは、その仕事に打ち込んでついかつての仕事を忘れてしまった。
社会での持ち場が完全に替わってしまった現在では、作業としての手仕事や原稿書きのほかは何も出来ない。
かつて不向きとして遠ざけていた作業がかえって今の僕の生活を支えているのが不思議である。
日商簿記の試験に臨むと八点しか取れなかった。精神的に参ってしまう中で、文章の方を書くのが上手になってゆくのが自分でも分かった。
これは捨てがたい。頑張ってものにしたい。夢が現実になることもあるのだから。
日曜日ごとに書いた原稿をトモニーで製本した。エッセイを連載しているタレントの本を読んだのがそもそものきっかけだった。
どこかで自分の自信につながっていくかも知れない。エッセイは自分のライフワークになる。そう確信を持てた一冊。まず人に見てもらおうと考えた。
あゆみ舎で文筆業を頼まれる。作品をインターネットで公開できる。話を持ち込んだ職員の一言に後押しされ、ベラ二枚くらいから始めた。
某カルチャーセンターの通信講座にトライしようと思ったのは、今年一月。そして七月、修了証書を頂く。五回の添削指導の中で師を得て、これからも指導を受けたいと願う。
もうあゆみ舎も立派な生活の一部になる。、これまで僕の運命に関わったすべての人々に感謝しながら、あゆみ舎での執筆活動に力を注ぎたいと思う。
これからもよろしくお願いします。まだまだ果てぬ道はずっと続くのだから。

ひとりの手

社会福祉法人光道園というところにミックバラーズと言う利用者中心に構成された音楽グループがある。
数年前僕は北文化会館で開かれたそのコンサートを見に行った。
そこで聴いた一曲。それが今回のお題である。
本田路津子訳詞、ピート・シーガー作曲のこの曲との出会いは今から三十五年ほど昔。まだ整肢園に通っていた頃の話になる。
一人の小さな手。一人では何も出来ないし、出来てもその力は微々たるものだが、それでもみんなで力を合わせれば何でも出来る。
「人間は人の中で生きていくものです。仲間を大切に友人とのつながりを大事にして、力を合わせて道を切り開いて行きなさい。」その日の講話の中で、シスターはそう私たちを教唆されたと記憶する。
それから長くこの曲は僕の記憶にとどめられたが、なかなか生で耳にする機会に恵まれなかった。
たまに人にそう言う曲の話をしても、知らないと取り合われなかった。結構マイナーな曲なのだ。
ミックバラーズの演奏で久しぶりに聴いた。
確かにそれだ。間違いない。演奏されるところでは、密かに目立たずこつこつと演奏されてきたに相違ない。
思い切って彼らの演奏を生オケにして歌った。
人は一人では生きてゆけない。皆で手と手を携え、助け助けられて生きてゆくものだ。会場の皆を結びつけたのは、確かに歌の力だろう。
観客と演者の興奮が一つになり波になって広がってゆくのをみながら、改めてこの曲が演奏された意義は何だろうと考えた。
おそらくはこの日会場にいた人達の多くは、その場で初めてこの曲を耳にしたのではなかろうか。
併せて演奏された「手のひらを太陽に」よりは知られていないこの曲だが、メッセージ性にはそれ以上にあふれているだろうと思われる。
しっかりと地に足のついた感じの曲で、歌い継いで行かれるのは同じだと思う。
この場にいてこれらの曲たちを耳にする幸せを考えた。やっぱり歌は良い。

悲しいけれど

かけがえのないものを失ったとき、人は悲しみのあまり自分を見失うこともある。
しかし世の中には同じ悲しみを持ち、救ってくれる人との巡り合わせが必ずある。
父の知己友人の話を聞いていると、そう言う巡り合わせもあるものなのだと意を強くする。
連れ合いを亡くした人の声を聞き、心を開いていると、自分だけが悲しみに打ち沈んでいるのではないという思いが、ある種の共感とともに湧き上がってくるのだという。
「友人は悲しみを半分にし、喜びを二倍にする」という金言もある。障害を持つ子の親として、あらゆる困難に耐えてきた父と母。残される僕は今、自分のためだけでなく、人のためにどれだけの働きをしているだろう。
キリストは障害のある人々のことを「小さくされた者たち」と呼んだ。ある意味で過保護な育ち方をした僕。一方でこれまで健常者と同じ条件下で教育を受けられたことそのものに賛を寄せる人も多い。

南蛮正月

気の早い話だけれど、クリスマスにはどういう贈り物をしようか。
盆休みが短い分、いらぬ事を考えないようにしたいのに。
盆暮れ正月やたらと忙し・・・なんて曲あったなあ。
ケーキを食べていることも今の自分には少なくなった。
日本で古来の祝祭の代表格と言えば盆と正月と相場が決まっている。
南蛮正月のことなど考えるのは自分の柄でもない。
恋人たちのクリスマス?恋人はサンタクロース?そう言えばクリスマスについて肯定的発想が浮かばなくなって久しい。
女性と子供のものという南蛮正月。あゆみ舎には牧師様もおられるのであまり行き過ぎたこともいえないけれど、考えてみればクリスマスをそんなに真剣にとらえてこなかったのも僕の生い立ちである。
日本の盆。この期間には静かに死者の野辺送りをする。
キリストの生誕日がクリスマスなら、盆はさしずめ春節祭となろうか。
イースターを祝って卵に彩色した幼き日も遠くなった。

天国は待ってくれる

歩こう。
僕たちは背負った何かを手放さず、ゆっくりと歩を進めてゆけばよい。
僕たちに必要なものは手の中にある。
すべてそれは自らの望みのままに。与えられた道具は天分の内に持ち合わせているものだ。
欲するものは望まずともすべて与えられている。
自分の思いとそれがことごとく合致している。これを幸せと呼ばずして何であろうか。
人生というのは歩みを止めなければ、何か良いことが一日一回は訪れるように出来ているものだ。
聖書にある「求めよ されば与えられん」と言う言葉は真実だ。
今の僕には輝く未来を求めて、やるだけのことはやろうという意志がある。でも特に極まったことを考えず、やるべき事をただやっていくだけで良い。
天国は待ってくれる。すべての苦しみは自らで解決していくもの。それすら時間の経過により何とでもなるものだ。
あの世は人の心の中にある。

あの世の救い

時がたてば苦い思い出もつらい経験も美しい出来事に見えてくる。
時の経過はすべてを解決してくれる。
何とかするために悩みを内にため込まないのが僕のやり方だ。
外に言ってしまうことで、ずいぶん荷は軽くなるし、しかるべきところに相談すると、すべて解決してしまう。
僕は自分の診断書を見て本当の病気の名前を知ってしまった。
それで悩みがなくなってしまう。
一切の苦しい思いが自分から由来するものであるなら、時はそのすべてを浄化する。
美しい。過ぎ去った思い出はそのどれもがきらきらと輝いている。
根が自分勝手な人ほど、自分の苦悩の正体を悟りやすいのかも知れない。
他人のことで悩んでもすべてはその解釈次第。心のありようがこの世のすべてを決めると僕は信じている。
心の容量の大きさがある人ほど、あの世で助けられる友人の数も多かろう。
盆を前にこんな事を考えたりしてみた。送り火に思いを託して。

創作ノート

書く楽しみ。書く苦しさ。
創作を読む楽しみがそれを補うに充分なことは、多くの作者が証明してくれているところだ。
テレビドラマの原作。アニメのストーリー化。いろいろな本が今日も本屋に並んでいる。
気に入った本はもちろん、少し苦手だなと思ってもいつかは読んでみたいという本もある。
CDを買うときのどきどき感や原稿用紙に向かうときのわくわく感。
読んだり聴いたりしたことは確実に血肉となって文章力の向上につながる。
好きな作家の文章を書き写したり、新たな発見を書き込んだ創作ノートを持つ人も多い。
僕なりの創作ノートを作りたいけれど、一歩踏み出せないでいる。
テーマやキーワードを書き出して文章にまとめる。人の文章やCDを聴いた感想を書き出してみる。
エッセイ講座の全課題を終了した今、あゆみ舎での文章修行の中に次なる課題を見いだすとすれば、この創作ノートの作成になるのかも知れない。

スイカ

初スイカを食べた。
一切れ厚く切られた塊を大口をあけて頂く。甘さが口の中いっぱいに広がる。父の心遣いがうれしい。
心の調子がこのところ良くないので、トモニーにいくのを控えているこの一週間。
あゆみ舎には通っているのだが、身障者授産の厳しさに、僕はとうとう音を上げそうになった。
コーヒーの香りや緑茶のほんのりとした甘さに心を奪われる瞬間。
あの厳しさが僕の今のプライドを支えていると思えば、一人きりで楽しむそんな瞬間もさりげないようで大切なひとときである。
スイカを食べながら八月を思う。一週間僕があゆみ舎やデイケアで過ごしている間に事態はどう動いているだろう。
状況は三日で動く。頭が混乱するとき、僕はいつも事を収給するためにもこの手を使う。
二回も休みを取れば、だいたいのことは収まりがついてくれる。
八月に入れば盆休みもある。あと数日を頑張れば、楽しい余暇の時間がすぐそこに待っている。

「私の声が聞こえますか」

一九七六年。僕は何をしていただろう。
先週になって、中島みゆきのデビューアルバム「私の声が聞こえますか」をTSUTAYAで買って帰って聴いた。
びっくりしたのはその質の高さである。僕にはそのアーティストとしての完成度を改めて見せつけられたような気がした。
一九七六年と言えば僕の四歳の時。あの名曲「時代」をラジオで聴き、誰の何という曲かを意識して曲を聴いたのはその翌年と記憶する。
そう、このデビューアルバムには後に再々リメイクされることになるこの曲が入っていたのである。なんと息の長い作品だろう。
一九九〇年代に入って某ビール会社の宣伝に使われた曲「踊り明かそう」も収録されている。
デビュー曲「アザミ嬢のララバイ」。これはカラオケでも歌ってみたのだが、短い中にも光るものがある。作者のセンスを感じるのだ。
かつて出会ったどのアルバムより名作と思う。これからも末永く愛聴していきたい。

デイケア以前の思い出

夢は弁護士か法律家になって社会的正義を守ることです。
口だけでそう言っていても仕方がないから、小学生の頃のこの夢を僕は完全に胸の中に封印してしまった。
そんなこと言っても目指し方も分からない。どうしても自分には向いていそうもないし、第一勉強で目を酷使しないといけない。
視覚に不安を抱えていた僕は中学からtに進学せよという親の方針に従うことしかできなかった。
中学には結局そんなこんなで合格しなかったが、高校入試からの再チャレンジで見事tへの切符をつかんで、その後学校の勉強だけに精を出す。夢は小説家。
原稿用紙に字を埋めてゆくという地道な作業。ただ地道と言ってもそれが膨大な枚数になると大変だと、また両親は反対。
すっかり文筆に対する情熱を冷ましてしまいそうになったけれど、エッセイなら書けるかも知れないとまたも僕は次の夢への期待をつないでゆく。
社会に出る一歩手前、二十一才の頃、必要に迫られて書いたエッセイまがいの手紙を知人に託したところ、それなりの評価を頂いた。それがきっかけとなってある会社の求人係に紹介された僕は、その時初めて入社試験というものを受けた。
小論文の書き方すら分からなかった僕に与えられた課題は、「明治のチョコレートについて思うところを書け」
四百字以内と制限がついたこの論文によって、一応僕は合格点を与えられたが、創作活動のきっかけになるはずのその会社での一番最初の仕事が、思わぬ重圧となって、僕は現在の病気の前駆症状に苦しんだ。
即刻退社して後、家族が異変に気づいたので僕は精神科に送られた。二十六才になっていた。
五年間、この入社試験の一件のほか、小売店やコンビニエンスストアのバイトもしていたけれど、この年にすべて辞めてしまった。デイケアに通い、その中で生活リズムを整えるよう、医師から忠告を受けたからだ。
今から十四年前、僕のデイケア生活はこうして始まった。思えば長い年月になる。

 

台風

台風八号接近の報。
西日本で豪雨の恐れ。
朝から蒸し暑い大気を運んできたそうで、今日は台風の風より雨がものすごい。
頭がぼんやりして、何をどのようにして物事をなすのか、さっぱりまとまらない。
こういう日は天候もどんよりして空も泣いているので、気持ちもただでさえさえない上に、気分が相当重たい気がする。
何をどうしたか、とりあえずあゆみ舎に出た。こんな文章を書いてしまって、何ともくだくだしい始末である。
二日したら猛暑日が来る。NHKのラジオで天気予報のお姉さんが言う。
信じられぬようだがもう七月だ。夏本番がいつ来てもおかしくない。
半年もしたらまた冬が来るのか。「夏が来た 半年たてば もう冬だ」誰かがこんな川柳をラジオで投稿していたが、台風が来るのは秋の訪れの印だったとかつては記憶していたように思う。
季節外れだ。最近は夏の前に台風が来る。異常気象である。

 

タカラ「人生ゲーム」

タカラに人生ゲームというボードゲームがある。
二千ドルの手持ち資金と保険などを使って、ルーレットを回し人生の各段階に訪れる機会を生かしてゆく。いかにして手持ち財産を殖やしてゆくかというゲームである。
僕はどういう訳か財の増やし方が得意で、家族でやってもデイケアでやってもいつも二位ぐらいでゴールする。母がいつも言っていたことを守るのである。
家はいつも高い方の物件を求め、返せるお金は返せる内に返済するようにする。
多少リスクがあっても手元資金が豊かな内は、攻めの姿勢を貫けば必ずつきが回ってくる、
その機を逃すな。
これらが経験則となって高得点に結びつく。
こういうような財への向き合い方は人によって様々だから、持っているときについ調子に乗って使いすぎたり、返せる財をそのままにしていてつい返しそびれたりする。
それぞれの人生、それぞれに映り方も異なるようで、なかなかに深いものを感じるゲームである。
 人生ゲームで大金をつかむ人とそうでない人との差。
イベントでどんな内容が当たるかルーレットを回すときの運もあるが、どんなイベントの時も(子供運も含めて)ただでは起きない人が強いように思う。
このゲームでの教訓で実生活に生かせることの一つは、人生でつかむ証紙の額は人によって一定であるという事実かも知れない。
僕は大して意に介さないようだけれど、お金の使い方については独特のポリシーを持っている。
入る金額が一定だと言うことは出る額も自ずと決まってくると言うことだ。
若いときにたくさん証紙をつかみすぎて悲運にくれることもあれば、その逆のこともあろう。貯金は将来の備えのためにも是非必要だが、あまり額が高すぎるのもシブチンのようでいやだ。
貯めたお金は人に預けたり託したりして有効に使ってもらうことも大事なことで、僕も学生時代にはそういうような計らいを怠らなかったという思い出がある。
今はあるものをあるものとしてほどほどに生活を楽しんでいる。不足はない。

明治チョコレートについて

マカダミアチョコレートやアーモンドチョコレート。
いろいろなチョコが明治から出ているけれど、ミルクチョコレートが僕は一番好きである。
板チョコで売っている昔ながらのチョコレート。
今はホワイトチョコもブラックチョコも売られているし、それぞれミルク感やビター感がたっぷりのチョコとして愛好者も多いけれども、やっぱり僕はミルクチョコレートが好きである。
永遠のスタンダード。
きのこの山やたけのこの里などのクラッカーやクッキーにもチョコが使われているけれど、そこに使われているチョコはまた幼い頃から慣れ親しんだ、あこがれの味。
それもあの板チョコで売っているミルクチョコ抜きには語れない味だ。
明治と言えばチョコレート。日本の子供たちの記憶に強く刻まれたチョコレートのあの素朴な味わい。
日本で初めてチョコを販売した明治ならばこそである。

悩みながら書いて

四百字詰め原稿用紙。
そこに広がる世界はその都度違う。
意見や意思の伝え方も書きようも違うので、同じ題材で文を書いても、日によって違う。
五回同じテーマで書き直して、その都度違う文章にした上で、その長所を組み合わせて一つの作品にしてゆくのが良い。
これはかつてデイケアにいたSという僕の知り合いが提案してくれた方法である。
僕はこれまで文章を一過性のものとしてしかとらえてこなかった。
多少おかしいところも個性として割り切っていたからだ。
過去に一度書いたテーマで今書いてみたらどうなるかという視点も大切だと思う。
バスに乗ってと言うテーマで一度書いてはみたけれど、さすがにそのままでは課題として提出できないと思い、書き直したという経緯がある。
文は時と場によって全く変わってくる。その点生き物のようだ。
その時その時の文を定着したものとみるのも大変なことだ。天からこう書けと提示されてそのように書くのも、それこそその時の文章の主体はどこにあるのかという話になって気味が悪かろう。

弱者と仁義

任侠ヘルパーと言う草彅剛主演の映画を見た。
やくざが老齢者を食い物にする形は良くある構図だが、この主人公はヘルパーという仕事をしている内に義に目覚めてしまう。
暴力団が福祉に手を染めるというのは本当にありそうな話だと思えた。
大部分の利用者は金をむしり取られることはないが、自己破産に陥った高齢者を施設に放り込んで金づるにする。
そんな貧困ビジネスが表向き裏社会を排除する形で事業化されている。しかしその実その裏では・・・。
答えがこの映画に描かれているようでならない。
僕は裏社会の存在を良いこととは思わないけれど、必要悪という概念はあるように思っているので、現代のおとぎ話としてこの映画を楽しく見せてもらった。
自分の身を置いている福祉の社会でももしかしたら起こりうるかも・・・。そう考えるのは深入りのしすぎとしても、弱者を真に守るための仁義は培われているだろうか。

障害者の戦時

作業所で作業することが障害者にとってどれほどの重みを持つか。
十年たってそれがよく分かってきたけれど、この福祉の枠組みで障害を持つ人達に、戦時にも今と似た施策を講じられたとあるところから聞いて、驚いたことがある。
戦時、全国の障害者たちには赤紙が届くことはなかったが、作業所ごとにノルマを課せられ、その中で働くよう強要され、それができない者は生活の保障がなされないなど強い罰則が待っていたという。
今NHKドラマなどで戦時を扱うと、ある一面のみがクローズアップされがちだが、障害者と戦時に関して記述された資料を見てみると、今この体制で自立支援という枠を考えるとき、すでにもうそれを戦争中に考えた人物もいたという現実に突き当たることになる。
時代は繰り返す。兵役免除の代わりに作業所へ-。
切り裂かれた者たちの運命ばかり考えるが、実は昔より日本の福祉は第一級だったのだ。

日本の音楽シーン

僕が初めてカラオケで歌を唄ったのは五歳の時。
その頃はカラオケといっても曲だけの録音で、歌謡曲や演歌が主な曲目に入っていたと記憶する。
歌謡曲隆盛の一九六〇年代、フォーク、ニューミュージックの七〇年代、アイドル全盛の八〇年代を経て、一九九〇年代はJ-POPが大輪の花を咲かせた。
ユーミン・サザン・みゆき・チャゲアスからポルノ・ゆずまでミリオンヒットが次々に生まれたこの時代。
日本の音楽シーンはそれまでの総決算を迎えた。
SMAP・SPEEDを頂点とした最後の輝きを放って、アイドルも多様化の時代を迎えた。
音楽は皆で聞くものから個から個へ発信するものへと変化した。
B’Z・ZARDなどは時代の雰囲気を見事にとらえた曲や詞で「時代の伴走者」と異名をとった。
そして二〇〇〇年代。なかなかヒットらしいヒット曲も見いだされないまま、今日もテレビやラジオから曲は流されてゆく。

悩みの質

自分は悩んでいても、本格的に困りごとを主治医に打ち明けたりしない。
悩んで足をすくわれるより、その場その場でなんとかなってゆくだろうと考えることにしている。
悩みの方から歩いてきて、さぁどうしよう・・・となったときに初めて悩んでみる。
これも悩んでみるのであって、こうなると悩むのも面倒になる。
その時その時困ったことがあれば、その場で解決すればいい。
両親にもそういう考えで育てられた。
この病気になるまで取り越し苦労をしてばかり。
実は僕は先に悩みを拾い集めてまで考え込むタイプだった。
身内とはそのことでよく意見が対立していた。
それが精神科に入り、自分のことを話したりしている内に、ここでの悩みが自分のこれまで拾った悩みとは本質的に別のことかも知れないと感じるようになった。
ここにいる人達の周りの人間が困っている場合の方が実はずっと多くの割合を占めているのではないか。

事実は小説より奇なり。

リレー小説というプログラムが医院のデイケアで行われている。
テーマとキーワードを決めて皆で一文ずつ作文していくのだが、これは自分だけの話にならず、結果的に話が広がっても、誰かが収束してくれるという安心感がある。
しかし自分の作品を書きためるとなると、誰が責任を持ってくれるわけでもない。
その内容に関する責任は全部自分に掛かってくる。
妄想やほかに公にできない自分だけの話が出るので、結構きついこともあった。
ただもう僕の話を読み返してみると、会おうとして会ったわけでもない某有名人の話やら、アニメのキャラクターのモデルが本当にいたという話やら、いっぱい出てくる。
今度はホームページに載せられない限定的、個人的な話もたくさんあったりして、内容的にいかにも精神を病んだ人のお話だなと感じられるものも多い。
内輪だけの話にして他のところでは嘘にしないといけない本当を書いてしまったこともある。
嘘にしてしまった話を今更本当と言うこともできない。事実は小説より奇なり。
小説にするための嘘のつきかたも分からないまま、半端な話の落ち着きどころはいったいどこになるのだろう。

夢の映す真実

夢の中に出てくる世界はいつも幻のようにもう一つの真実を僕に提示する。
学生時代のことを夢に見るとしても、今は亡き母の面影が見守る中、僕自身は相変わらず問題集を解いていることが多い。
職場で仕事をしている夢を見ることが僕にはない。
社会で自立していく際の何かが足りないから、だいたいは高校時代で僕の夢は止まってしまうのかも知れない。
もう一つの真実とは自立に向けての何かが足りないことなのだ。
そう自分では思い込んでいる。
多くの人が経験する社会生活。その記憶が自分には乏しい。
そのことを考えると劣等感につながると思いきや、それはそれで楽しくデイケアや作業所に通い続けている自分が一方にいるわけだ。
それもその真実を見事に映し出しているといえなくもない。
これから社会で自立した生活を続けていくために、どこにどう手をつければいいのだろう。

出会いの桜 別れの桜

春が来た。
今年の桜も今週末、見頃を迎える。
花粉も飛び始めた。花粉症の人にもつらい。
この陽気に誘われ、虫たちも動き出した。万物に恵みを与える太陽。
気温もようやく上がり始めた今週。水曜日にはあゆみ舎で花見のプログラムがある。
いろいろな趣で桜を楽しむところ。
かつてのように足が自由にならない僕。今年の花見をどう過ごせばいいのか。
考えどころである。あゆみ舎での初めての花見。楽しみにしたい。
新入生の桜のイメージがダブる四月だけれど、ここ数年は桜は三月という話になっている。
二月は梅。三月は桜。四月は三色スミレやチューリップと言うことになろうか。
どうやら四月に桜はぎりぎり間に合うと良い方で、ちょうど満開の時に四月八日の入学式を迎えるからという理由によるらしい。
別れの桜。たとえば森山直太朗の「さくら」などは三月のイメージである。
出会いと別れ。今年もまた季節は巡る。

視覚障害者とマラソン

先日、トモニーでカイロのシール貼りをした。
第三十一回視覚障害者マラソン大会の景品として参加者全員に配られるものでシールには協賛各社の広告が印字されている。
「当日天気になるように願いながら貼ってや。」職員のhさんの言葉だ。
大会当日にかくも雨にたたられるのも珍しい。
目の見えない人が、伴走者の手引きを受けながら懸命に走る。
「目が見えないのに走らはるの?」と最初この競技の話を聞いたときはびっくりした。
「白杖はどうやって使うの?えっ!!いらんの?」新しい発見があって楽しい。
「手引きしてもらいながら一緒に走るから大丈夫だよ。」利用者Uさんに教えてもらってそんなものかなと思った。
それでも転んだらどうするんだろう。
「体そのものに障害があるわけではないから、その時はその時。」
Uさんは屈託なく笑った。
それぞれの障害を当たり前の個性として生きている。人とは意外とそういうものかも知れないと感じた。
                      

明日はきっといいことが…

頭の回線がパンクしている。自分の記憶と他人の言うことが奇妙にシンクロしてくる。
こうなると逃れようがないからつい大声を出してしまう。
デイケアで暴れるわけでもない。それでも他の人から見るとおかしいよとナースのkさんが言う。
僕の方ではただでは引き下がれない。先生に見てもらうように取りはからってもらい、薬をもらって即退散。翌日デイケアにいるのがつらい。
それであゆみ舎へ通うことにしている。あゆみ舎に出てこんな文章を書き付けているが、前日に比して頭がまだすっきりとはいかない。
いつ頭がごたごたして、また状態が悪くなるかなかなか分からない。自分では気づきにくいのだ。
水薬でお茶を濁してしまうのも、仕方なくという事情があるにせよ、何とはなしに悲しい。
たまらない気持ちになる。この病気の苦しいところである。
明日はきっと良いことがある。そう絶えず思っていなければ・・・。

体調管理のツボ

体調管理が主に頭や心の調子という話になったのは、ここ二、三年の話。
処方される薬を飲まずに病状の悪化を招き、デパケン・リスペリドン・アキネトンを追加処方されてますます病気を自覚した。
だらだらと食っちゃ寝の生活を送っていた十代の頃。何か大変なことが起こったような気持ちがしたのは十七才。精神科に送られたのは二十六才。
発病を発病と気づかぬようで気づいていたのに、その間九年たっていた。こちらの落ち度が大きかったのか、もう二度と治らないかもと不安になる。
一週間に一度、なぜか火曜日には頭や心の調子を崩してしまう。そんなことがこの一年か二年ほど続いている。
ナイトケアを受け夜診に掛かって水曜日にはあゆみ舎へ。この生活リズムがうまくはまると実に一週間が心地良い。そう分かってきた。
これからこれが体調管理のつぼになりそうである。

ハンバーグレクインはせがわ

二〇一三年十一月二十五日、あゆみ舎はハンバーグレクと称して山の家はせがわへ名物のハンバーグを食べに出かけた。
店自体京見峠にあってあゆみ舎京北工場に行く途中に通ることから、また以前から看板メニューを味わいたいとの声があったことから今回の企画となったという。
一食の予算は千三百円程度。皆で二十人ほどで出かけることになった。
犬や猫が店内をうろうろしているという状態には改めてびっくりした。
動物嫌いの人には入りにくい。
大きなゴールデンレトリバーがゆっくりと歩を進めている。
Nさんが犬を猫かわいがりして何回も何回もなぜていたのが印象深い。
犬の方で疲れてしまったのか奥に引っ込んでしまう。なかなかユーモラスな情景。
事前にメニューをチェックしたとき、犬のいることも掴めてよかった。
僕は好物のおろしポン酢ハンバーグを注文。セットで頼むとスープとコーヒーもついてきた。
ハンバーグに大根おろしがかけてあったのを、ポン酢の器にすべて入れて、ハンバーグの一片をそれにつけて頂く。美味だ。
やっぱりハンバーグにはソースよりポン酢が合う。そう一人で合点する。
日本的な山小屋仕立ての店の造りとも相まって、テラスから望みます京見峠の紅葉はすごく雨に映えて鮮やか。真っ赤に色づいてとても綺麗だった。

エッセイは難しいか

ヴィンテージと言うエッセイ集を自費で刷ってから十年たった。
当時は週一回日曜日に四百字詰めの原稿用紙で三枚を一編とした作品を見開き二ページに収め、百二十編あまりを一冊にしている。
今回はあゆみ舎の仕事として原則一日四百字詰め原稿用紙一枚を一編として二三編を綴ろうというわけで、創作活動を始めた。
一回に書く枚数を三枚とするには、まだ頭の調子が本物ではないのでそうしたのだが、頭のねじが元に戻らないのはすこぶる残念だ。
かっての自分は大変なことをしていたのだと改めてその筆力に感じ入った次第。
エッセイの書き方通信講座というものを知り、まずは課題文一編を送ったのだが、二枚、三枚の四百字詰め原稿用紙を埋めるのがこれほど骨の折れる作業になっていたとは。
もうそろそろ本格的に原稿用紙三枚以上の大作に挑んでみようかと考えはしたけれど、仕方なく現状に甘んじている。
まだまだこれではいけないと思うのに。

お供えの悩みは・・・

仏様に手を合わせて今帰りました-
こういうときどんなお供えをしようかといつも困っている。
私が好きなのは和菓子なので、いつも大福餅をお供えにするが、時に花見団子や安倍川餅を買ってきて、後でどぎまぎしたことも多かった。
串ものを買うと左右に一つずつ団子が並んで・・・。こうなると少しバランスが悪い。
安倍川餅は皿に残るきなこの処理に苦しむのであまり買って供えるべきものではないのだろう。
生ものを供えてはいけないというので、大判焼きをと思ったけれど、今度はどのくらいの頻度で供えるべきか迷い、頭が痛い。
中一日そのまま置いておくのに、あまり古い餅を置いておくわけにもいかない。
みたらし団子なんか供えた日には仏壇に蟻が上がってきそう。
仏様への気持ちにどれほどのものを供えるか。そういうことに大いに悩んでもう三年。
何か良いアドバイスを下さいませ。

チョコ一枚の幸せ

自分だけの楽しみ。
かって恒河沙にいたとき、工賃をもらうのは日割りで二百円くらいの話だったので、月に一回買う板チョコ一枚が一番の楽しみだった。
今かってのその楽しみを思い出してみると、当時と今との金銭事情を比べて格段に異なるのが自分で処分できる生活費があることだ。
昔のチョコレート一枚の楽しみはあくまで自分の小遣いとしての作業所の工賃のみを貯めていたという今から約十三年もの昔の話であった。
今では一日一回のソフトクリームを楽しみにしているが、当時から見ると何か隔世の感がある。
生活費を自分で稼いだ上での月一回の楽しみと言えば、そんなに思い浮かばないというのが今の感覚である。
当時と比べて持つ財産が増えたわけでもないのに感性がかえって鈍感になったと言えばいえなくもない。
今もたまに手にすると懐かしい思いに駆られるガーナ一枚の幸せの話である。

小麦肉

外で食事するとお金がかかるので最近は内食で済ませることにする。
家のなかで食事することを内食と言い、コンビニなどから弁当を摂ることを外食と内食の中間の中食とか言うそうな。
家のなかでトーストを焼く方が外で焼いてもらうより安いに決まっている。
ところが事がことトースト一枚のこととなると 人によっては外で焼いてもらった方が得という場合もある。
お肉ならずトーストを喫茶店で焼いてもらうことをうちの母は小麦粉の肉を焼いてもらうにもその人の甲斐性がいるのだからと言っていた。
外でトーストを食すのも僕の甲斐性というわけで、ステーキを焼いてもらって外で食べるのとよく較べられていた。
手間としてはトーストの方がずっと安くつく。ステーキを外で食べているのと同じようなものと思えば、外でトーストを食べるのはなんとリッチな話か・・・。
半ば強引な比較だと思いながらも、年明けからもう二回も小麦肉(トースト)をいただいている。
甲斐性と言うほどのことではないかも知れないが、近頃母のそういう言葉を懐かしみながら、僕は喫茶店でトーストを焼いてもらっている。
小麦のリッチな香り、やはり僕は大好きである。

今年の節分予想

三日前サークルKの店内でもう節分用の太巻きが売ってあった。
気の早い僕は早速手に入れた。恵方巻きの気分で一気に頬張る。
三寒四温、温かさと寒さが一進一退するこの時季に太巻き寿司を口にするのはまだ早いとデイケアでも呆れられた。もう二月の話では鬼が笑うだろうか。
まだコンビニに福豆はおいていないにせよ、今年の節分はどんな天候になるのか、あと二週間しかないし、二月の気温ぐらいはもうそろそろ気にして良い。
例年この時季は寒波が襲ってきて雪が降り、父にとってY神社に参るのも車の運転が大変だ。それでもまた今年の節分祭には参拝するのだろう。
毎年の習いを変えるわけにはいかない。早い早いと言いながら今年もまた二月を迎え、豆を頬張る。
それだけを楽しみにと言えば虫がよすぎて罰が当たるだろうけれど、自分にとって節分がもうイベントにならないだろう事が悲しい。
食べ物のみの習いにしておくことももったいないのに。

初詣にて

 

一月六日(月)。上賀茂神社にお参りに出かけた。 

おみくじを引くと・・・。末吉!! 

一番いいのが大吉だから、めでたさも中くらい也何とやら。そう思っていたら・・・。 

大吉に当たった人の話はその場が最高の運気であとはしぼむばかりの内容だったと聞いたので、実は末吉が一番運が良いかも知れない。末吉こそが因果のホンマ。

 今は見通しはよくありませんが雨のやまない日はない如く霧の晴れない日はない如く、あなたの人生は次第に晴れ渡ったものになるでしょう。

 そんな内容のおみくじにうれしくなって医院のデイケアにかえってみんなに見せて回った。

 良い内容なので今年一年気分よく過ごせそうだと一人で悦に入っている。

 年頭に当たり皆々様に書中ながらご挨拶申し上げます。新年あけましておめでとうございます。本年も皆様にとってよい一年でありますようにお祈り申し上げます。

 

年頭を迎えて

おせちも用意しました。
年末のラジオはやっぱりNHKの特番で決まりです。
第六四回紅白歌合戦。たいした盛り上がりがない去年は白組の勝利でした。
二〇一四年正月二日目はラジオの聴き過ぎで幻聴に苦しみました。
自分のことをラジオが呼んでいるのです。名を呼ばれると精神的にハイな状態になってfアンカーにラジオの前から呼びかけたりして、その混乱ぶりは相当のものでした。
父には「こんな頭の状態では初詣に連れて行けない」とそのまま家の中へ置いてきぼりを食う羽目になりました。
正月の初っぱなから箱根駅伝をこれもラジオで聴いて、ビールをあおるようにして飲んですっかり良い調子になっている自分。
一方でこんな年明けから山道を走っている大学生に悪いけれど、毎年の恒例行事ながらよく続くものだと一人感心しながら雰囲気に浸ってしまいました。

サザン・オールスターズに思う

サザン・オールスターズが三十五周年を迎えた。
ジャパニッシュと言われた桑田佳祐のあの独特の歌い方は、デビュー当時ある程度受け入れがたいとされたものだけれど、サザンの一つの個性として若者に浸透していった。
活動停止という名目で活動を一時取りやめてはまた続けるというパターンはサザンをはじめとした他の多くの同世代のバンドが取った算段だ。
活動停止中にアーティスト個人が他のアーティスト個人と刺激を受け合う形で活動を続けながら、次なる成長や新たな展開の糧にした。
ファンもそれを大きな心で受け入れた。
少し前、歌謡曲とアイドルの時代には考えられなかった。
このような活動スタイルを取ることにより、サザンは自らそのバンド活動を楽しむという物言いで、この三十五年目をとらえた。
自らがぶれないバンドの共通点としては、自ら実績を上げていくこと、音楽性を高めていくことと同時に、心から自らの仕事を楽しんでいるかと言うことも大切な要素としてあげられる。
そしてそれこそが彼らが長く活動を続けていくための秘訣であると思う。

あるライブ会場にて

前川裕美さんと言うシンガーソングライターがいる。
全盲でありながら作曲もできるすごい人。すごいというより自分の意志を通すそのひたむきさがすさまじい。
音楽に対する思い、それを演奏することの醍醐味を語る彼女の口から、自分のハンディをはね飛ばす力強い言葉が次々と出てくる。「好きだからやっているだけだということを理解してほしい」
映画音楽とミュージカルが好きで、クラッシック音楽を他ジャンルと自由に行き来するクロスオーバーにあこがれたという音楽的志向を聞いていると、障害を乗り越える翼として音楽が彼女に与えた度量の大きさを感じずにおられない。
どういう状況にあっても鍵盤を触ることをあきらめなかったその意志の強さには、ただ脱帽するしかない。トークとライブで楽しい九十分が瞬く間に過ぎた。
好きこそものの上手なれとはいうけれど、並大抵のことでは彼女の域には達せないだろう。
今日は爽やかな陽光に包まれた午後のひととき、同じ視覚障害者の身の上で誰もが実感できる話に、会場から共感の笑いや相づちが広がる。
アメリカ留学で主体性を求められた彼女。日本にないアメリカの良いところを経験した故に、日本の良いところもよく見えたようだ。
何気ない話の端々に自立した暮らしが垣間見えて感動した。異文化に触れ日本とは違う精神風土があると知った、そのことそのものが私の強みだと力強い答えを返した彼女に、障害者故の気後れなどみじんも感じられなかった。
一つのことに精通し道を究めた人の強さ、一つの個性としての彼女の芯の強さは演奏からもよく伝わってきた。作曲の時の苦労話も彼女にかかれば、一気に解決してしまいそうだ。
このような機会を与えていただき、本当にありがとうございました。皆の暖かい拍手に包まれたこの会場にいられたそのことこそ、僕の喜びとするところです。

あゆみ舎

カルルンの製造販売で利用者を支えてきた前例があるあゆみ舎。
塚崎医院に通院しながらの通所など考えることもできない。そんな状態での話だったから、ほくほくから通所してみないかと声が掛かったときは正直言って驚いた。
自由な気風の作業所に行きたいという願いをトモニーのhさんが聞き届けて下さったのだ。
ウエノ診療所のことは知っていたし最初に受診したいと思っていた診療所だったこともあって、この巡り合わせに何か不思議な縁を感じた。
系列としてみると今通っている塚崎医院とは全く別だと思って、いわば川の対岸の出来事としてあゆみ舎のことを見ていたところがあった。人ごとだったのである。
それが自分に限ってみれば、通所を許されてしまった。
まさに青天の霹靂。塚崎先生に頼りっぱなしでは決してこういう結果は得られないだろう。
その辺が人の縁の不思議。人生とはわからないものだ。ほくほくのiさんの離れ技であった。
全くの対岸を指名してくるとは予想だにせず、僕はあゆみ舎に通所することになったのである。
自由に何をしても仕事になる。と言ってもあゆみ舎としてやることと一致しての話だけれど。
文筆業で身を立てたいと思ったことのない僕だけど、書き続けるというこういう仕事が与えられたこと。これもなんという巡り合わせだろうか。
趣味で書きためた文章を自費出版してまもなく九年になる。ほんの少しでもそこから上達したい。
またホームページという新たな表現媒体を与えられ、発表の場も少し広がったので励みになる。
通信の編集にも文章を使うし、活動の幅がこれからも広くなればと願って今日もまた文章を書く。
原稿用紙に文字を埋めるというアナログな作業に新たな魅力を広げつつ、僕はこれからも歩み続けたい。

平次親分

銭形平次が投げる寛永通宝の価値は四文。
早起きは三文の得と言うけれど、この三文や四文の価値が今はよくわからなくなっている。
文という貨幣単位が何円くらいに当たるのか調べてみる。
シジミを四文で買えたというところから考えて、一文が江戸時代には今の五十円くらいに当たるのではないかと思われる。
平次は銭を投げて敵を成敗する。古来から銭は神様に捧げる御櫛料としても重宝に使われたから、ただの経済的手段としてだけではない。神々への加護を祈る手段としても効力を発揮したのではないか。
自分を守ってくれるお守りと思って僕は小銭を大切に使っている。銭形の親分は敵の首領が本当にクロだと見定めるまで銭を投げつけたりしない。神事水明に誓って天に背くような銭の使い方はできないからだと僕は思う。
いつからか僕も平次のファンとなって、大川橋蔵のものは全部見た。お金の使い方についても、大いに考えさせられたものだ。

おもてなし

喫茶店でブレンドコーヒーをホットで頼むと、体が夏でもほかほかと暖かくなり熱を奪われた効果で涼しく感じられる。
Iさんという父の知人がいて僕が四、五才の頃こういう話を教えるとはなしに教えて下さった。
暑い夏でも熱い飲み物を取る方が良い。冷たいアイスクリームなどやっていると内蔵が風邪を引く。夏でも暖まる方が良いのだと。
夏に熱い粗茶を出して、お粗末ですが…とやると相手も深い意味がわかるほどに恐縮したり、深い感動を覚えたりする。
ドナルド・キーンさんもそういう独特となる日本のおもてなしについて触れ、深い感銘を覚えたと書いておられたと記憶する。
東京五輪が行われる二千二十年。滝川クリステルさんのスピーチにもなった日本のおもてなしの心が、世界に広く受け入れられる契機になるだろうか。
熱い五輪招致活動の後を振り返り、改めて日本を取り巻く世界に目を向けるのも良い。

人生の持ち場

もう何年も前の話になる。
母が生前よく話していたことだが、人というのは誰もが其の生きていく上で持ち場を持って、それを守りながら生きている。
持ち場を大切に生きていきなさい。
いくらほかのところで別のことをしたいといったってそこでできることを何もしなければどうしようもない。
そこの持ち場でできることを一心に打ち込んで初めて、できることが見え、周りが見えてきて次に進めるのだということを肝に銘じておかねばならないというのだ。
要は大切にしないとならないのはその時その時をどうするか。あるいは仕事ややらねばならないことをどう大切にするかということである。
人から与えられたことであれ自分が進んでやり始めたことであれ、自分の持ち場を時と場所を守って一生懸命勤め通すことだという話だった。
「プロフェッショナル仕事の流儀」というNHKの番組で「すしの二郎」こと小野二郎さんが紹介されていたとき、その道へ十代の若さで入って八十才という高齢になるまで天職であるすし職人を続け、自分の店を三つ星にまで高めたという話を聞いて、改めて僕は人生の持ち場についての話を考えた。いいなあ、ここまで人生長く一つのことを続けられたら・・・と一緒に見ていた母が感極まったように声を上げた。これこそ理想の生き方だと二人して感動して番組を見終えた後も、その余韻に浸っていた。
この番組では最後に決まってゲストとなるプロフェショナルたちにプロである上で何が一番大切かを聞く。好きなことと長く続けていることが最も大切であると僕は思う。

「ワークハウスせいらん」見学

西京区嵐山にある知的障害者の授産施設に見学に行った。
名前を「ワークハウスせいらん(西嵐)」と言う。
そことあゆみ舎との共同プロジェクトとして障害者手帳のカバーを作ろうという話をしている。
元々この話を企画したのはあゆみ舎の方で、それを形にしようと制作できる作業所を探したところたまたま目にとまったのがこの「ワークハウスせいらん」さんだったそうだ。
形状として小銭入れや札入れを付けようという案をこちらから持ち込んで、先方と検討を加えた結果、襠を付けたりファスナーを付けるとせっかくの手帳カバーがかさばるばかりでなく、あまりカバーとしての本来の「保護する」と言う目的にそぐわなくなるというので取りやめることになった。
手帳カバーの色としては黒・赤・茶の三色を想定していると先方に伝え、いろいろ革地を見せてもらった。ブルーやオレンジもあったがやはり黒と茶それに赤以外の色は派手すぎる。
バスの降車の時などにあまりちゃらちゃらと目立つ色のカバーを付けた手帳を運転手さんに見せるのはどうかという話になり、この三色にやっぱり落ち着いた。
せいらんさんはブルーの革地をよく使ったのであまり在庫がないという。話をよく聞いてみると犬具の制作に使って大人気だったそうだ。障害者手帳と違ってこちらは目立てば目立つほどそれだけ喜ばれる品物。なるほどと皆で感じ入った次第である。
せいらんさんは犬具のほかにキーホルダーや各種革製品の下請けを行っている作業所で、皮なめしの機械などいろいろな工具、たとえばキーホルダーに使う革地のほつれをとる機械など多くの専門的な器具機械があって楽しそう。
そう思って多少うきうきしながら作業場に入ると、対照的に皆さん粛々と作業にいそしんでおられる。思わずこちらも其の雰囲気に飲まれて厳かな心持ちで革をボンドで貼り合わせる作業を見せてもらった。
後は帰りの車の中で刻印や焼き印の版下を作る作業がいったいどういう事なのか説明する。土砂降りの雨の中を一路あゆみ舎へ。印象深い雨のカーテンのなかなかなか意義のある見学会になった。

北山病院夏祭り

泣き出しそうな空。
朝のうちにはいったん大雨が降っていたからもう大丈夫だ。
そう思って迎えた本番は客足もまずまず。
雨天決行で覚悟していただけに現場に着くと眼に光が差し込んできて晴れとはいわないまでも曇り空の割にはよい天気だった。
店先には佐賀県唐津から仕入れたサイダーとラムネをおいてある。懐かしい。
ラムネはガラス瓶にビー玉で栓をしてある昔の形のものだ。
三本売れたサイダー、ラムネは一本。せっかくの目玉商品も雲の多い天気に本数が出なかった。
主催者側は高校のダンス部の袖振れダンスや子供太鼓やバルーンアート、芸術大学の大学生似顔絵作家のコーナーなどの催し物を取りそろえて子供連れを中心とした楽しい夏祭りを演出しようとしている。職員さんも浴衣を着て団扇を手に涼しそう。
主婦連が手芸商品をぱらぱらと品定めして買っていって下さったり、陶芸商品をまとめ買いして下さる人もいた。
終わってみれば雨が降りそうな天気といわれる中でよくやった!!五千百五十円の売り上げなり。子供が多かったので子供向けの商品で五十円玉一つあれば買えるものを品揃えしとけばよかった。反省点でした。
後別紙に書いたような紹介文を施設を代表して読み上げた。
マイクがきたときはどきどきしたが、事前に用意ができて其の分気持ち的には救われた。
一度もかまずに発表できたと見ていたMさんに声をかけられ、yさんに広報担当とまで持ち上げられて、こんな事でもできてよかったのかなと思う。
当日に配られたビラにはサービス券が三つ。ゲームとジュースとフランクフルトの無料券。
それでは足りないだろうとyさんからたこ焼きを頬張って、Oさんから現地まで取りに行ってもらったフランクフルトをもらって上機嫌。
少し引け目を感じたのは途中トイレに立つとき、yさんに手引きしてもらったこと。お手をお掛けしました。ありがとうございました。

探し物は何ですか

このところ失せ物を探す時に父の目を借りなければならないことが多い。
どこに何を忘れたとか、何をおいたのかもすぐに記憶の外へ放ってしまって訳がわからなくなる。
病気のせいだけでもない。捜し物が苦手なのである。
かなりの確率で失せものを見つけるのは父の方で見つけてもらうのにわあわあいうのは僕の方である。探せない探せないと結構うるさい僕だが、父に「おまえのは探せないのではなく探さないのだ」と言われると何も言えない。
口惜しいけれど眼がおといのと元祖広汎性発達障害のためのような気がする。
しかし僕の失せものはかなりの確率で出てくることが多いのでそこが救いとなっても何やかやいいながら付き合ってくれる。
自分でなくしたものは自分で探して自分で対処するのが本来の姿であることには変わりない。その日その日の気分で鍵やら保険証やらいろんなものが失せてそのたびに大変だ大変だとやっている自分。毎回見つかってほっとするけれどそのたびに大騒ぎしている自分が情けない。
父には「毎回毎回の貴重な経験がおまえには生かされてないのかな」と残念そうに声をかけられる。がっかりしてしまうのも毎度のことである。これで探すのが他人だったら・・・とたまらない気持ちになる。
自分の探し物を人に探してもらうのは自分の方が鈍だという理由もあるがどうもよからぬ事のように思う。自分の力で探せるものを探さず、人に持ってきてもらうのは自分のためにならないだろうな。
時間をかけて探すとか,逆に探すのをやめて別の機会に探すと見つかることがあるとはよくある話で井上陽水の曲にもあるけれど、いったん失せたものが二度と出てこない人も中にはいるらしい。
「夢の中へ」を口ずさみながら,どうしても見つからないものが自分にはいかに少ないかそれを改めて考えて、恵まれた自分の身を思う。ルーズなようで自分のものはしっかりと手にしている僕だから失せもの騒ぎはもうたくさん。もう大声をそのたびに出すのはやめにしよう。たまには親孝行しないとね。

出世できない出世魚

土用の丑にはウナギを食べて暑気払い。
平賀源内がこの習慣を世に広めたといわれる。江戸時代の川魚屋さんへの販促作戦。
鯨の肉は今や高嶺の花となった。
ウナギの稚魚も卵から孵すのが難しいので、絶滅も時間の問題という。食べられるのが可哀想と思う。
江戸時代の庶民にはなじみ深かったこれらの食資源が平成のこの世では枯渇しようとしている。あれだけ捕れたカタクチイワシはどこに消えたのだろう。
今スーパーマーケットで主に売られているのはウルメイワシ。昔ならアザラシの餌にされるような鰯だ。食べられなかったキャビアやフォアグラのことしか頭になかったこの身には、いつの間にやらなくなってしまったこれらの魚類のことまで思いが至らなかった。
本当に安いはずの鰯がもうなくなってしまって信じられない気持ちだ。
マグロも鯛も養殖物が安く出回る一方で、天然物が口に入ることはもうないのかも知れない。すこぶる残念である。
ウナギが絶滅危惧種になってしまう。
千円、二千円の高値で取引されるウナギ。父はこんな値段のウナギはもう口にできないという。
足下の水産資源、鯨を含めた食文化が日本人に支持される一方で、大衆魚がなくなるという話も次第に現実化してきたようである。
ぶりをハマチのうちにとってきて食に供したりすることは昔からあまりなかったという。あってもにぎり寿司のねたに本当に貴重なものとしてハマチを使ってきたというのが現実である。
ぶりをスーパーマーケットに探しに行くと其の方が表示としてわかりいいからかみんなハマチに化けていた。ぶりはどこに行ったのか。小さくても大きくなってもハマチはハマチ。出世魚の代表格も出世できなくなったらしい。
乱獲を避けるために幼魚と成魚の名前を変えて旬を狙って捕っていた魚が近頃は年中手に入る。何か天界から人間に罰が当たりそうで怖い。ぶりは冬が旬なのだけれど・・・。

木質ペレット

森の力京都(株)という企業が京都市右京区にある。
先週の木曜日、あゆみ舎京北工場の近く(スーパーサンダイコーから北へ。花園大学グラウンド向かい)にある,そこの木質ペレット製造工場に皆で見学に行った。
といっても僕は一行には加わっていない。パンフを見ながらの土産話をもらって文章化せよとのyさんからのお達しである。
木質ペレットというのは木材を細かく砕いて燃料化したもので、ちょっと見たところチョコレート菓子に似ていて、誤って食べてしまいそう。美味しそうなのである。
美味しいのはこのペレットが空気中の二酸化炭素を固定化した木材からできていて、燃焼しても空気中の二酸化炭素を増やさないという点。クリーンエネルギーの代表だということである。
京都で育った木を加工し、エネルギー資源として活用する地産地消を実践することにより、地域の活性化にもつながるという利点もある。
まわりに建物が何もなくそこに工場だけがぽつんと建っているという立地条件で環境はすこぶる良好だということに、見学したみんなが驚いていたようだった。
工程を手短に説明する。間伐した木材をまず五センチのチップに砕く。さらに一センチ五ミリに砕いて含水率十五パーセントくらいに乾燥した後、九ミリ以下に砕き、サイロに空輸して貯蔵して一定量ずつ造粒(高温高圧で圧縮成型)した上で余分な粉を落として作られた木質ペレット。
これらはボイラーやストーブ、グリルなどの燃料として使い道があるそうだ。ボイラーは暖めるという用途のほかに冷やすことにも利用できるという。
これは見落としがちだから、なるほど書いておかねばなるまい。
木質ペレットを石油や石炭などの化石燃料の代わりに使うことで、二酸化炭素の排出を抑え地球温暖化の防止につながる。つまり環境に優しい燃料なのだ。
この企画、元々はあゆみ舎が重村さんの木のおもちゃや檜のまな板を納品しているペレットハウスという事業所がこの工場を経営しているというご縁があって実現したもの。
原発が環境問題になっているこのご時世に燃料として木のくずを使ったペレットストーブなどがエコな熱源として認知され、北海道東北山陰などで普及している。
あゆみ舎京北工場のこんな近くにこんな企業の工場がある。意外なところに意外なものがあるものだ。やはりこれは是非見学すべきだった。

京北工場道中記

京北工場道中記【其の一】
北山橋を経由して紫野泉堂町のバス停に至る。
ここまでは市バス北八号でも通る見慣れた街並みが眼前に広がる。
今日はカル・ルンを酌みに京北工場まで行く。
行きは職員yさんの運転。山道をくねくねと登っていくときの華麗な運転テクニックは本人も自負するところ。
泉堂町から玄琢下の交差点を左折する。
光悦寺は血塗の天井で有名なところ。
京見茶屋を過ぎるとはせがわというハンバーグ屋さんがある。こちらはハンバーグを千二百円というリーズナブルな値段で食べられるところ。
少し行くと右手にあるヒノキ林から京都市内を一望できたというけれど、今は少し見づらい。京見峠と言われたのはさすがに江戸時代にまでさかのぼるらしい。
はせがわも市内に店があるけれど寺町御池にはホットケーキがおいしい喫茶店があって、そこも知る人ぞ知る名店らしい。
トイレ休憩に清滝川に架かる橋の上に停まる。

京北工場道中記【其の二】
橋の上から下を覗くとテニスコートらしきものが見えた。
その真下に木造のアーチ橋がある。
これが古いもので、今かかっている橋はのちに架け替えられたものであろうと思われる。
北山丸太生産組合を通って北山杉資料館へ。
この近辺は川端康成の『古都』の舞台になったところで文学碑もたっている。北山杉資料館と川端康成文学館の案内があったけれど文学館の方は今は廃されているらしい。
右手にはヨモギもちが美味な御餅屋さんがあるという事です。機会があったら食べてみたいな。
笠トンネルを抜けると京北町。小野郷といわれるこの地区はJRバスも通っているらしい。
栗尾トンネルから峠を下っていくと左手に京北の街並み。
トンネル工事は本年十二月に終わる見込み。
yさんは「トンネルが開通して京北に行くのが近くなっていいけど,その分ドライビングテクニックが披露できなくて残念」とのことだった。

 

京北工場道中記【其の三】
次の休憩はスーパーに昼食の買い出し。
京北の地元限定のスーパーで梅しそ巻きとカップ焼きそばを買う。
スーパーでは現金しか使えないので、なけなしの自分の財布と相談しながらスタッフのhさんと一緒に買い物をする。
それを済ますと皆で一路小塩地区へ。
窓の外にはきれいに水田風景が広がる。林材木店の前を通り抜け、京北工場へと車は到着する。夏の日射しだけれど爽やかな風が吹いていて、まるで五月の陽気である。
利用者のYさんとOさんと職員のyさんとhさんで和室で卓を囲んで昼食をとる。
カル・ルンはそのまま使っても強い殺菌作用がある。一度煮沸した原液を瓶に詰めてかごに入れてゆく。在庫を四十八本作ってこの日の作業は終了した。
帰りは花脊経由であゆみ舎へ戻る。裏庭で摘んだ山椒の香が心地よかった。

五山の送り火と盆

夏の風物詩といえば京都で祇園祭と双璧をなすのが八月の盆の時期に行われる五山の送り火であることは誰もが知るところだ。
昔は御所の南面に座を占めると五山すべてが一望できたという。
五山とは大文字、左大文字、鳥居形、妙・法(お経)船形の五つの山を指す。
野辺送りといえばグレープの精霊流しでも唄われる送り方(川にものを流す)というものが有名だ。
思いのこもったものを川に流して野辺送りをする。それも地方によって異なるけれど、京都のそれは山に火をともしてその明かりによって野辺送りをする。
大文字は人の形に由来する。鳥居型は結界を示し、この世とあの世をつなぐ入り口を表す。舟形は精霊を運ぶ船を、妙法は読経の代わりとして経文の一部を火で表すものである。
大文字で形を与えられた精霊は人型となって船に乗り、水面を滑るように鳥居をくぐり抜け、読経の厳かに流れるなか、天界に静かにのぼっていかれるのだ。
京都盆地を全体的に海に見立てて野辺送りとは昔の人はなんと大胆なことを考えたことか。
京都では川にものを流すといえば友禅流しぐらいで川を汚すことは禁じられていたからではなかろうか。
だから山に火を灯してあのような幻想的な行事を思いついたのではないか。夜の闇の中で・・・。
今年もまた八月十六日は巡ってくる。故人を偲ぶ家族のみならず、京都を訪れ五山を振り仰ぐすべての人、そして全国の皆さんに等しく盆は巡ってくる。
江戸が東京となって後盆の時期を一ヶ月繰り上げて七月にしたという話を聞いたことがある。
ゆっくり家族で過ごすことや一カ所に集まって休暇を取ることが東京では難しかったという昔のいわれによるらしい。
今年の盆休み、あなたは誰とどう過ごしますか?

挨拶状

カル・ルンを出荷するとき、時候の挨拶を添えています。
毎月バリエーションに飛んだ文章にするように心がけていますが、時々語彙が出てこなくて困ってしまうことがあります。
気候の急変があったりすると、皆様もお体をお大切にという一文があるとよいと思いますし、体温調節のために気を遣いましょうという呼びかけも大切と思い、入れることもあります。
カル・ルンをお買い上げになる皆様一人一人に、お送りするあゆみ舎のメンバーを代表して心のこもったご挨拶をと心を砕いております。
毎回違った文案で趣向を凝らしたものに仕上げますので、肉筆で温かさが伝わるようにと気を配っております。
これからもあゆみ舎とあゆみ舎製品をよろしくお願いいたします。
そういう思いをカル・ルンをお買い上げのすべての方々に届けたいと始めたこの取り組み。
時々ぽかをして時節に合わぬ文章をそのまま送ってしまったり、あるいは同封に間に合わないこともしばしば起こります。これから意を用いたいと思います。
しかし心の病故体調が優れなかったりして、やむなく同封に遅れることもございます。あしからずご容赦下さいますように。
忙しさのあまり文章作りができないこともありますがなるべくカル・ルンをお買い上げの皆様へのこの取り組みは続けていきたいと思っております。
これからもよろしくお願いします。
一月の年賀から始まり、節分の二月、水ゆるむ三月、桜満開の四月、ゴールデンウィークの楽しみいっぱいの五月、梅雨のさなかの六月、緑いっぱいの七月、海や山が恋しい八月、初秋の九月、落ち葉のカーペット踏みしだく十月、寒風が身に応える十一月、そして一年の締めくくりの十二月と、毎月それぞれの時期に合わせて、どんなご挨拶がいいか頭をひねっています。うまい文章が書けていればいいのですが、まだまだ力不足だなあと感じることも多いです。

酔魚のごとく

儲かりまっか?ぼちぼちでんなあ。よくある関西人の挨拶。
でもこのやりとり、ぼちぼちの前にお陰様で、という一言がついて「お陰様でぼちぼちやらせてもらってます。」というのが本来の正しいやりとりらしい。
自分がいるのはたくさんの人の縁のお陰様で、そのお陰でぼちぼちゆっくりやらせてもらってます。マイペースでやらしてもらってます。というのが本意らしい。
たくさんの縁を大切にしながら、仏のお導きのままに、ゆっくり自分のペースで。
だから見守る大勢の人々のことを絶えず忘れてはいけない。頑張り時はきちんと頑張らないといけない。子供も大人もそうだ。一生にはもう一踏ん張りしないといけない潮時がある。そこを逃したら見守ってくれる多くの人達にも見放されるかも知れない。そういう頑張り時が人生の中で、幾度か巡ってくる。
多くの人との縁を思いながら、定められた命を今日一日どう使うかが大切で、人生の価値はその長さではなく、生活の質であるという考え方が仏教にはある。定命という考え方がそれである。
大学の時の最終学年のゼミで僕を担当した教授は「人生で大切な三つの事柄」として愛と自尊心と自己犠牲をあげ、僕たちへのはなむけの言葉とした。
愛とは捨てるもの与えるもの。いわゆる喜捨に通じる。自己犠牲もそう。ただその時に自分を大切にする心がなければ、人と対等な、相手に大切にされる関係を築けないと説いて最後の講義は締めくくられた。
人を大切にして、喜捨、定命の精神に活き生かす事こそ人生の本義だという考え方は、源氏物語や論語を人生の素養として課したそのゼミの根底を成していたのだろう。酔魚という魚がいてそれは三十五年以上でくの棒のような生活に溺れるが、その後突如として人を助け人に仕えて大成してゆくという説話が仏教にある。そんな存在に僕もなりたい。

京丹波スポレク販売会

五月十九日(日)の京丹波での販売会。
僕は九時半に皆と出かけたけれど,先の便の八時に職員のみの先発隊が出て店開き。
府の関係者の方々がこの時間に皆で製品を買っていかれたそうだ。
後でデジカメをのぞいてみればなんと府知事があゆみ舎の職員二人と記念撮影に応じてくださったとの話。
びっくりするやらうらやましいやら。
出て行くときは天気もよく予報をいい方に裏切る。
気分も上々でいたけれど結局十二時半には無情の雨。
雨脚がどんどん激しくなる。
テントから外に出ようとする選手の皆さんもほとんどいなかったので、せっかくのかき入れ時に客足がほとんど伸びず、全く売れなかった。
売れないのを天気のせいにするのもなんだか残念だけど、昼食のコンビニ弁当をローソンにYさんが買いにいって下さったのを始め自分でもソフトクリーム一本とフランクフルト、焼きそばを売店で買って食べ、売り場でもぐもぐやっているうちに雨が降り出し、高等学校のブラスバンドの演奏を聴いている間、もぐもぐやっている自分が立場を変えて客の方から見たらどう見えるだろうと考えると、この雨脚とともに何とはなしに悲しくなった。
終わってみれば後日の精算によると千二百円あまりの売り上げ。結果的に車のガソリン代にもならないとしても、これをプラスにとらえてしまうのがあゆみ舎のすごいところ。
でも自分としては楽しかったからそれでもいいやといっていいのかどうなのか。
食いっぱりの性格はいかんともしがたく、売っているのやら食っているのやらわからん。Yさんによれば、知っている者同士で売り場を共有しているということ自体がそれでも皆の安心感につながるそうである。
それはよくわかるんだけど、僕には売り込みというのがどうも苦手なのだ。どこで店を出しても結局そこで食べるのに夢中な自分がいて悲しいんだけどね。

取材だ!夢を語ろう!

京都新聞が取材に来た。

あゆみ舎で作っている檜のまな板のことで記事を書くという。

オーダーメイドでいろんな寸法のまな板を作れるのが、ここの製品のすごいところ。

そう強調していたYさんが記事をどう書いて欲しいと注文を出している。

無関心を装いながら僕もはたから見ていて、新聞に載ることの意味を考える。

載ったら後で問い合わせが五件は来る。

前経験した取材のときも、ライトハウスで同じことがあったし。

その場の反響もすごいから、新聞に載ることはメンバー全体の共同の夢であって、取材で製品をどうアピールしてゆくかは大きな問題なのだ。

まな板のこととSさんの木工作品のことと、ふたつの用件で取材に来た記者さんが、どう文書にしてゆくか見ものだと思ったけれど、やはりまな板のことが主になり、そのなかで努力して木工作品を作り、人形やおもちゃを作っていけるようになったメンバーがいるという紹介が後尾の方にさらりと書かれていた。

木工全体という枠で取材して欲しかった作業所側の意向とはまた別のところで、あくまでもまな板だけにこだわった記事「私たちが作ってます」(毎週木曜日連載)になった。

題は「檜のまな板」かなしくも、これだけの時間いはったのに、たったこれだけ?と思えて、少し意外だった。

一作業所単品を主題に一回ずつ完結の囲み記事ではもったいない。

「次は本でも出したいです」(Kさんの言葉)

本を作って延々と作品のことを特集していけば…。すごい夢。

一冊にしたらそこそこの厚さになりそうである。

皆が胸のうちを書いて、病気への理解を求めてゆくのもいい。

今回の取材もホームページをその新聞記者さんが見て企画されたもの。

そう、チャンスはどこに転がっているか分からない(某職員)というのは意外に本当かも知れない。

この文集も本にならないかなぁ…。とこちらも勝手に夢見る。

北白川天神宮

北白川天神宮は白川神道の一つで吉田神道とはまた別のところと知ってびっくりしました。
白川神道だけが病気やけがを治す神様を祀ると聞いてみればこの天神宮はいわゆる天神様、菅原道真とはまた異なるようです。
京都には北野天満宮というところもありますが、少彦命神を大使大明神として祀るここは、学問の神様とは違うので「てんしんぐう」と呼ぶのだといいます。
こういう事を混同すると大変なことになります。
北白川天神宮にある湧き水も天下の名水として知られ、遠く嵐山からも汲みに来る人がいると聞きました。
 学問より心の病を治すのが専一な我が頭にもちょうどいいところだと思いました。
ある病院の創立者も五十年来ここを参拝して健康を保っておられるということです。
天神さんといってしまうと白川神道とちがってしまうので注意が必要です。
ここを僕たちが訪れたときパッと散る桜として再評価された山桜はこれからが盛りでした。
軍歌にも「同期の桜」と歌われたソメイヨシノの美とは、また違う意味を認められているようです。
桜の名所として隠れた人気を誇る人気スポット。あなたも一度訪れてみてはいかがでしょう。

迷信

日本、特に京都の正月や盆は、子供達がその期間をどう暮らすかによって、その先の運勢や生活力を占うことが出来るという言い伝えがあるという話を、僕も母の亡くなったときにあるつてから聞いて、その年の盆と正月は、自分なりに冒険してみた。

お金をどう融通して、三食どこで食べて、家に帰るのがいつになるかによって、その先の運を試みるということなので、その通りに組みたててやってみたのだが、自分ではうまくいった。

特に毎年試みるという訳ではないし、あまりそれにこだわっても結果が悪くなりそうなので、去年は年明けと盆にわざと家を開けることはやめにしたけれど、父はそういうことにあまり頓着しない方なので、結果的に三が日と送り火の日に日暮れ、変質者に間違えられそうな時間帯にわざと方違えして帰り、あろうことか精神科に放り込まれた。などという話で父がまたいらいらと言い募るので今年はもう自然に過ごそうと思っている。

 

うつ

つかさきを十五時に出ると、家に帰ってくるのが十六時半で、そこからついつい寝床に入ると、翌朝七時半まで寝てしまって優に十四時間を超えて睡眠してしまうと、翌日体がだるくなる。

こんな寝方をしていると、どんどんなまけた生活に自分が入っていくようで嫌になる。

二十一時までは起きているべきだとは思うのに、ついつい多く寝てしまう。

休日なんかは昼間から寝転んでいて、生きる気力さえなくしそう。

天井をぼんやり見つめているとそれだけで病的になりそうな状態で、どうして自分で用事を入れなかったのだろうと後悔する。

寝ずに外に出ている生活の方が心にも身体にもいい。

自分から作業所に出て働くことの大切さをしみじみ感じる。

毎日毎日sにいても煮つまるからこれからは週二回にします。

そう自分から言ってあゆみ舎への縁をつないだわけではないけれど、自分をとりまく人びとの縁を感じたとき、僕は自分の存在と、それがどんなに大切にされてきたかを思わずにはいられない。

足が良くなったからと言って、寝てばかりいるとまた体がなまる。

そう寝てばかりもいられない。

作業所で頑張って、できる作業を精一杯やって、デイケアで参加できるプログラムを見つけて、治療意義を見つけることも大切なので、いつも寝込んでいると、うつなのかもという気持ちが強くなって、暗い心持になる。

病態が少し悪くなったのかと思いながら、それでも気を強くもたなければ、気力で負けてしまいそうなので、開いた時間はリハビリに励む方が大切だという思いがふつふつと沸いて来る。

うつ状態になってしまうと悪くなるが、薬が増えてしまって悲しい気分になる。

薬が足に及ぼす影響を考えると気が気ではない。

生活できるうちはそれでもいいけれど、自分にはあって父にはないと言われた「あること」がどう影響するのだろうと思うと、少し気掛かりになる。

そういう詳しいことは思わない方がいい。

この世界(障害者福祉で支えられた作業所や医院)で生きていると、自分の経済生活がどう転がってゆくかも気をつけたいところだ。

札を玉に替えて散らしてゆく手並みもどこでどうするか気構えが必要で、一日五百円で三十日で一万五千円。コーヒーショップやコンビニで一万円を出し、五千円を千円札に替えるときも、どんなものを買うか気を使った方がいいらしい。

アイスやコーヒー一杯(三百五十円~四百五十円)に一万円出すと丁度いいみたいだ。

二万円を一箇月で使う計算だから普段は三百五十円もっていて、残りは本代やチケット代につかうといい。

外で食事をとるときも、デイケアやあゆみ舎が主だから最近は計算がしやすい。

札を持ち込むと困る場面もあるので、最近は百円玉を重宝にしている。

千円札を三枚ももっているとどこにいくにしても充分だから、あとはそれをいかにくずさずに持っているかが大切になる。

祇園祭

 

六月の梅雨時になると、ひと雨ごとに暑さが増し、七月になるといよいよ京都では祇園祭の季節がやってくる。

待ちに待った祭りの入り。吉符入りともなると夏も本番。テスト勉強も忘れて、人出のなかに入り浸り、あとの始末が大変だった思い出をもつ級友も多い。

悲しいことに勉強が苦にならなかった僕は、人出のなかに逃避するということはなかったが、この祭りのもつ一種独特の、町衆のパワーというものに圧倒された。

あの頃はまだ後継者不足といっても知れたものだったのかも知れない。

そういうことが取り沙汰されたのは、僕がちょうど大学に入るころで、三年遅れていたような気がする。

祭りが大きくなって、観光客にも多く知られるようになると、機を同じくして、祭りを支える人が不足するようになったという。

町会所と倉庫を大きなビルに建て替えたり、近隣のマンション住人を取り込んだりして人材確保に躍起となって走り回る人々の姿が地元紙に多く取り上げられるようになって、人々の地域での結びつきが希薄になった今日、祭りを維持する人材面にしても資金面にしても大変な努力が要るものだと考えを深め、懐かしく住時を思い出した。

鉾の飾り付けや数々の調度品も紹介されていて興味深かった。

また祭りに行ってみたい。中学のときは学校の前を山鉾が巡行したので、あまりにも身近だった祇園祭だが、時を経た今はあまりにもあのころが懐かしい。

 

あゆみ舎に来てみて

自由すぎるところにはかえって不自由が存在する。

不自由だからこそ自由が良く見えるけれど、不自由は不幸ではない。

必ずしも不幸を意味しない。人以上に重荷を負わされているけれど一病息災という言葉もある。

夏になると蒸し暑く、汗もよくでるけれど、いつもそのことを忌んでいた友人がいた。

しかし言葉がいつも軽くて、いつも自分が芯からそれを受けとる気にならなかった。

暑いとひと歩きした後のアイスがどんなに美味しいか。そんな話をすると彼は鼻で笑った。

この話のどこが愚かしいんだ。汗をかいて何かをするということが嫌いな人がいるんだ、とその時僕は初めて気が付いた。

世のなかに出るとこの手の人もわりと多かったし、外見だけで軽べつされることも多かった。

またそれに耐えられない自分も一方にいて、情けなくも精神科医にかかることになった僕は、自由の価値について今一度考え直す機会を得ることになった。自らに由って何かをするということが前にいた作業所では少なかったけれど、上からのことをそつなくこなせる人には、そこは居易い所だろうと思う。

自由が制約され、工賃の使い方まで問題にされるところがあるなんて、僕は考えてもみなかった。

社会に出てみると自由な考え方で対等に同僚と接することができなかった。

精神を束縛されると、かえって自由が欲しくなるが、僕は縦のつながりが見えにくく、どうして良いか分からないので病気になった。

あゆみ舎で自由な雰囲気のなかで作業してみて、個性を大切にするやり方が気に入った。

僕には健常者と一緒に十二年間過ごしたという自負があるが、三日働くと一日休まないと普通の働き方では通用しないという苦い思い出もあり、今のB型事業所での週二日ずつの働き方が一番自分に良く合っていると思う。

これからも自分の良さを認めてもらえるところでマイペースで働きたいと思う。

 

 

喜びと悲しみ

悲しみを乗り越えて喜びに至る道はないのかと最近思った。

分かったのは喜びと悲しみは必ずしも対の関係ではないということだ。

悲しみが深くなると逆に喜びにつながる。

喜びすぎても一寸先は闇だ。

深く悲しみに沈むことがあっても、あまり大きく喜ぶことをせずにいると、かえって不幸だと思うので喜ぶときは人のことで喜んであげればいい。

悲しみを分かち合う友人がいて、半分になるということもことわざにはあるけれど、悲しみは基本的に自分より出ずる感情だというのが僕の持論だ。

悲しみは自分持ちで、喜びは他人に知らせてもいい時と悪い時があって、自分と感性が同じ人には分けても二倍になるが、感性が違う人に分けても元も子もなくなる。だから自分にある苦しみや悲しみの方を僕はどちらかというと大切にするタイプだ。実は最近まで自分の喜びは他人にも通じると思っていたが、そうでもないらしいと気付いた。

悲しみの向こう側

悲しみの向こうには何があるのでしょう。

苦しんで絶望のうちで悲しみ、心からの怒りを覚えると、その怒りや憎しみは、内に向かってよりも外へ向かって動き、感情とはなりますが、それだけで終わるのでは、人間として底が浅すぎます。

苦しみに苦しみ、その苦しみを与えた他人を憎むだけで終わりたくない。

私は過去いじめや嫌がらせを受けて苦しんだことがありますが、ただそれを避けるだけでなく、その時に、考えなければならない事があります。

何故相手は嫌がらせをしてまで気を引こうとするのだろうという事です。

自分とその人との間の相入れないところはどこか、自分がその他人にどう見られていたから、いじめられたのかを、自分のなかで分析し改めれば、かなりの確率で分かり合えると思います。

慈悲や喜捨は仏教の言葉ですが、こういう苦しみに出会った時に、自分は相手に何を捨てられるだろう。これを考えると楽になります。

喜んで相手のために自分のもつ何かを捨てること。人の苦しみに寄り沿い、一緒に苦しんであげた上で、悲しみを示しそれを行動に移すことが大切だと思います。

愛とは奪うもの愛とは与えるもの愛とは求めるものだとは思いますが、とられるものを、相手にとって一番大切なものと心のうちで交換していくからこそ、人は明日に希望をもって、心豊かに人と関わってゆけるのだと思います。

そのへんのところを勘違いして、ただ相手にものを求めるだけでは人はその関係を崩すのです。嫌みも言いたくなるでしょう。それも対人関係の裏返しです。

小さいことの積み重ね

人によって幸せの尺度は違う。けど、お金や地位が手に入って喜ぶ人と、必ずしもそういうことにこだわらない人の間には、少し何か感じ方が異なるのではないかと思う。人からもらったものを大切にする人と大切にしない人の間でも、僕は随分そういう人達の板ばさみになって悩んだ。特に自分の妹が人のことを大切にしない、もらったものを無駄にするタイプなので、たまらなく嫌で、どうしてこのように性格が違うのか地団駄を踏んだ。

自分の財を食い潰して幸せを感じるタイプとも僕はそりが合わない。積み重ね積み重ねた財を他人のためにはねて、僕は喜びを感じるタイプだ。こつこつと物事を積み重ねて考えていく方だから、自分の特技や持ち場をことのほか大切にする。この独特のポリシーは幼時からのものではないけれど、こつこつと自分の体を鍛えていくなかで訓練されて手に入れた思想なのだと思う。泥臭い性格である。このような文章を書くことも、小学校からこつこつと続けてきたことで、折に触れて感じたことを書きためて、一冊は冊子を創ったけれど、こういう文章を母はよく分かる人のところで保管したらしい。あとでそれを聞いて僕はとても驚いた。そこに行けばあんたのことは何でも分かるんだよ、そう彼女は言っていたけれど、具体的にそこのことは明らかにされないまま母は他界してしまった。昔からあちこちを歩行訓練として歩いていた僕を思わぬ人が見ていたという例は多くあるようで、

そういう人のなかにたまたますごい人(著名人)が含まれていたために、えらいことになったというよりは、そういう沢山の人達とともに見守ってもらえた温かさを、最近しみじみと僕は感じている。また足が弱ってきたから別に時間をとって歩行訓練をしようと思うけれど、そういう時間がないと不服を言う毎日ではいけないと、また小さなことを積み上げてゆくと心に誓う。

非選抜アイドル

最近,AKB48の仲谷明香の本を読んだ。
題名を『非選抜アイドル』という。元々声優志望の彼女がその夢への通過点として選んだのがAKB48。
人気を得るための努力をするのが億劫だった彼女が、日々の公演というAKBの本領を頑張ってこなして、時には病気で欠場した他の人のパートも練習するという前向きさで「便利屋」としての地歩を築き、その頑張りを見てきた周りのスタッフを動かして事務所の移籍や、声の仕事を得てゆくまでの経緯を記したこの本。
たとえ自らがスポットライトを浴びなくとも、自分のできる目の前のことをレベルアップするという方法を目指してAKBのなかで「なくてはならない存在」になっていった彼女に学ぶべき点は多かった。
周りに敵を作らないという仲谷さんにはその奥義こそ聞いてみたい気がしたが、そこまでは書いてなかった。
AKBはその構成員にとって終わりではなく、自分が本当になりたい職業に就くための新たな出発点でしかない。選抜メンバーに加われなくても、敗者は勝者を輝かせるために存在し、自分がそれでも存在を許されるためには、勝者を輝かせるに足るレベルの敗者、それだけ高いレベルで闘った後敗れた者だけが、存在を許される世界。自分から敗れ去っていく者は存在そのものを否定される世界。
芸能界に限らず、高い水準で仕事を考えれば、絶対に誰もがその場で足をすくわれてしまうかも知れないそのような水準の話を、二十才になったばかりの著者が語ってくれる。その姿勢に大いに僕は脱帽した。
精神病にかかって、社会の第一線から脱落した者に、この本は励ましを与えてはくれないだろう。決して甘い話を期待してはならない。厳しい競争のなかで決して選ばれし者とはなれないが、それでも自らを輝かせるための努力を惜しまない。そんな人達に送る、現役アイドルからのメッセージ。

これからの私

目先を変える。

いつも喫茶店で頼むブレンドコーヒーをコーヒーゼリーに変えてみたり、いつもより見方を反対側にして、相手の身に立って考えてみたり、ちょっとしたきっかけで世界が百八十度違ってみえるかも知れない。

きっかけは息抜きだったり、頭の使い方だったり、人によって様ざまだろうが、そのきっかけによって人生が変わることもあるから面白い。

僕が今患っている病気には、これまでやる気パワー一辺倒だった僕の人生観に一石を投じることになった。

自分がやる気を見せて、どんどんどんどん仕事にのめり込んで相手が見えなくなると、必ずしも相手の必要とすることと会わなくてぎすぎすしてきて、自分が相手にとって必要のない存在に思えてきたりする。

自分の体調も無理しすぎぎりぎりのところまで来てとうとう入院せざるを得なくなると、やはり今までとは違った尺度で人生を見なくてはならなくなる。

これまでの暮らしを一から見直さねばならなくなった。

作業所に週四日通っているが、二回ずつ違う作業所に行くという状態になっている。

初めは週五回、同じ作業所に通っていたが、体調がもたなくなって入院してしまった。

それまでもその作業所からは、デイケアに行く日を増やして、ゆっくりしながら、仕事もすればいい、と言われてきたので、今度は精神科の作業所もつかう形でふたつの作業所を併用する形に落ち着いてみると、それで目先が変わっていいなと肯定的にそれをとらえることが出来るようになって、人生のとらえ方も変えざるを得なくなった。

ふたつの施設で課される仕事が全く性質の違うものなので、その場その場で全く異なる気構えで仕事しなければならないので大変さが半分こになって気持ちが楽になった。あゆみ舎で陶芸や作文の作業をして、Tでは紙袋の図柄の古布貼りや、紙袋の手提げ紐をつける作業を主にしている。

Tでは根を詰めなければならないので、あゆみ舎では出来るだけ息抜きをしながら、ゆっくりマイペースで作業をするように心掛けてみた。

いつもの習慣をちょっと変化させて目先を変えてみる。

これまで硬く考えていた人生へのとらえ方がガラリと変わり始めた。

少し勉強もしてみたい。

経理のテキストも買って読み込んでみる。

自分の自信につながることはやってみよう。

あゆみ舎で文章を毎回書くことも続いた。

手びねりで物入れを創ってみたり、フォトスタンド制作の現場も見せてもらった。

自分の才能はどこにあるのか。

少し見方を変えることで、よりよい自分の未来を探し続けたい。

現在の自分の持ち場はどこかしっかりと見定めた上で、それをとことんまで極めて、安定した仕事振りに結びつけばいいと思う。

これから数年間も、充実した気持ちで毎日過ごせるよう、服薬管理も体調管理もしっかりとして、親から自立した生活ができるようにしたい